本庄 実忠(ほんじょう さねただ、明応6年(1497年)? - 天正8年8月24日(1580年10月2日)?)は、戦国時代の武蔵国本庄の武将。東本庄館館主、本庄城城主。官途名は宮内少輔(くないしょうゆう)。
東本庄館の初代館主本庄宮内少輔信明の曾孫である本庄実明の長男として、東本庄館にて生まれた。
天文15年(1546年)、河越夜戦において上杉氏の旗下として小田原北条氏と戦い、手傷を負いながらも奮戦し武功を上げ、上杉憲政より西本庄の地を賜る。しかし、北条氏に対して上杉家は劣勢を盛り返すことができず、上杉家の居城であった奇居鉢城も北条方に奪われた。
天文15年(1546年)、後北条氏の打倒を図った上杉憲政に従い、北条方の河越城の攻略に実忠も加わった。上杉軍は城を包囲して城兵の降伏を待ったが、夜間に城より討って出て来た北条氏康軍に不意をつかれた上杉陣営は総崩れとなった(「河越野戦」)。この時、本庄氏一族の本庄藤三郎が上杉氏の本陣を守り、憲政の脱出を助けた。実忠も手傷を負いながらも奮戦した。実忠は戦場離脱に成功したが、藤三郎は戦死した。この本庄氏一族の奮闘に憲政は感状を発すると共に、実忠には西本庄の地を賜え、藤三郎の遺児である松寿丸には親の恩賞として久下塚(大字北堀字久下塚)の地を与えた。
天文20年(1551年)に両軍が神川、上里一帯で合戦となった。上杉軍は敗れ、上州より越後へ敗走した。以後、本庄氏は後北条氏に服属する事となった。実忠は弘治2年(1556年)に本庄城を築いて本拠を移した。その後、勢力奪還を図った上杉憲政が上杉謙信と共に越後国から関東に進出し周辺を席巻した。実忠も再び上杉旗下に入り、永禄4年(1561年)には後北条氏の本拠地である小田原城の攻撃に従った。永禄10年(1567年)に後北条氏が反撃を開始し、上杉謙信と合戦をするべく厩橋城へ向かった。その途上にある本庄城は北条軍の攻撃を受け落城した。実忠は降伏し、再び北条氏に服属することとなった。
天正8年(1580年)、85歳(満84歳)で死亡。
この評価は平成の『本庄歴史民俗資料館紀要』に拠るものだが、昭和の『資料館だより』では、町を整理し、宿場町の基盤を形成したのは小笠原信嶺、とある。その為、厳密には本庄北部の開拓者として実忠は評価される。伝承のように実忠の時代から城下町が形成されていたかは、発掘調査の結果では、実のところ疑われている。
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