北九州監禁殺人事件(きたきゅうしゅうかんきんさつじんじけん)は、1996年(平成8年)から2002年(平成14年)、福岡県北九州市小倉北区で発生した監禁・連続殺人事件である。
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事件関係者の名前はWP:DP#B-2に抵触するため、記載しないでください。 |
北九州監禁殺人事件 | |
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場所 | 日本・福岡県北九州市小倉北区片野1丁目所在のマンション |
日付 | 1996年(平成8年) - 2002年(平成14年)3月6日 (UTC+9) |
攻撃側人数 | 事件により異なる |
死亡者 | 7人(事件化されたもののみ) |
負傷者 | 多数(事件化されたものは少女Aと別の女性1人に対するもののみ) |
犯人 | 男M。また、AはBの甥と姪の殺害に関わり、Bは7人の殺害の共犯としてMと共に逮捕された。また、死亡者の中にも存命中に他者の殺害に関与した者がいる。 |
対処 | MとBを逮捕・起訴 |
謝罪 | Mからはなし Bは事件発覚後、被害者と遺族に謝罪した |
刑事訴訟 | 主犯格Mは死刑(未執行) Bは無期懲役 |
管轄 |
本事件は、男Mが、内妻のBとともに逃亡する過程で出身地である福岡県北九州市にたどり着き、少女Aの父である知人の不動産業の男性を脅迫と虐待の末に死亡させ、その後、Bの親族を北九州市の自宅に呼び寄せて監禁し、脅迫と虐待の末に親族間で殺害させた事件である。死亡したのは不動産業の男性を皮切りに、Bの父・母(G)・妹(H)・義弟・甥・姪の計7名に及び、裁判ではBの父に対するもののみ傷害致死罪とされ、他の6名については殺人罪が認定された。Bも殺害に加担し後にMの共犯として有罪判決を受けたが、他方でMによる虐待を長年に渡り受け続けた。本事件は、最初に殺害された男性の娘で、父の死後Mとの同居を強いられ長期に渡りMらによる虐待を受けていた少女Aが、2002年(平成14年)に親族宅に逃亡したことが端緒となり発覚した。
Mは人の弱みにつけこんで被害者を監禁して金を巻き上げ、拷問と虐待によってマインドコントロール下に置き、お互いの不満をぶつけさせることにより相互不信を起こして逆らえなくし、被害者同士で虐待をさせることで相互不信を一層深くさせ、自分の手は汚さずに用済みとなった人間を殺害して死体処理を行わせた。犯罪史上稀に見る凶悪犯罪とされ、第一審で検察側は「鬼畜の所業」と被告人男女を厳しく非難した。2011年12月、最高裁判所によってMの死刑と、共犯として起訴されていたBの無期懲役が確定した。
非常な残虐性・悪質性にもかかわらず、事件の知名度は高くない。当初は地元の報道機関を中心に報道をしていたが、途中から報道量が少なくなり、全国の報道機関での集中報道に結びつかなかったといわれている。報道量が少なくなった理由としては、「あまりにも残酷な事件内容のため表現方法が極めて難しいこと」や「家族同士が殺しあった事件の性格から、被害者遺族がメディアに積極露出をして被害を訴えづらいこと」があるとされる。
記事中仮名 死刑囚M | |
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個人情報 | |
生誕 | 1961年4月28日(62歳) 日本 福岡県北九州市小倉北区 |
殺人 | |
犠牲者数 | 7人 |
犯行期間 | 1996年頃–2002年3月6日 |
国 | 日本 |
逮捕日 | 2002年3月6日 |
司法上処分 | |
刑罰 | 死刑 |
有罪判決 | 殺人罪・詐欺罪・監禁致傷罪 |
判決 | 死刑 |
1961年(昭和36年)4月28日生まれ。福岡県北九州市小倉北区出身。福岡拘置所に死刑囚として収監されている。
実家は畳屋で、7歳の頃に父親が実家の家業を引き継ぐため福岡県柳川市に転居した。経済的には裕福な家庭であり、母親と祖母に甘やかされて育った。小学校の全学年でほとんどの教科の評定が「5」であり、学級委員長や生徒会役員を務め、中学1年時には校内の弁論大会で3年生を差し置いて優勝し、部活ではキャプテンを務めたが、当時から虚言癖があり、教師からの信用は低かった。
実際に小中学生時代の同級生への取材では「彼が弁論大会で優勝した記憶は無い。部活のキャプテンは本人が強く望んだため押し切られる形であった、チームプレイが出来ずレギュラーではなかった」また別の同級生からは「成績は良かったがズバ抜けているわけではなく、進学先も中程度の学力であった」と語られており、ライターの小野一光は「弁護側の冒頭陳述で出てきた内容と事実に乖離があることを感じずにはいられない」としている。
Bと同じ高校に進学し風紀委員長になるも、不純異性交遊が発覚して男子校に転校させられた。
転校先の高校を卒業して父の店を受け継ぎ、家業を布団販売業に転換、有限会社化のちに株式会社にする(社名ワールド)。1992年に指名手配されるまで詐欺商法を繰り返す。1980年に結婚して1男をもうけるが、1992年に前妻と離婚。その後に内妻Bと2男(C・D)をもうける。
病的なまでの嘘つきで、自意識が強く目立ちたがり屋。饒舌でいくつもの顔を持ち、エリートを演じる傾向がある。礼儀正しく愛想が良いが、猜疑心、嫉妬心が強い(アフェクションレス・キャラクターの傾向) 。異常なまでに執念深く嗜虐的。
また、虚勢を張るところもあるが、実際には神経質で臆病な小心者だったようで、息子の証言では暴力団から厳しい借金の取り立てに遭った時は、部屋で小さくなり閉じ籠っていた。また、出所したMの刑務所仲間によると、収監中のMは他の囚人や刑務官に対しては腰が低く礼儀正しく振る舞っていたが、実際には刑務官から「全く反省していない」と吐き捨てられていたと言う。
Mは「東大卒のコンピューター技師」「京大卒の予備校講師で物理学者の逸材で小説家志望」「実家は村上水軍の当主」「兄は東大卒の医者」など様々な嘘の経歴を名乗っていた。
Mは容姿や話術から女性から好感を持たれる魅力があり、それにより様々な女性遍歴があった。Mは同時に複数の女性と肉体関係を持っており、交際女性とその母親と同時に肉体関係を持っていることもあった。Bと元妻はMが同時に複数の女性と肉体関係を持っていることを知っていたが、Mとなかなか別れようとしなかった。Mの証言によると、この事件関係者である内妻のBの家庭については、BだけでなくBの母GやBの妹Hとも同時並行で肉体関係を持っていた。Mはこのことについて「奇妙な人間関係」と表現している。GやHの肉体関係については相手が誘ってきたとMは主張しているが、Bや元妻などMと交際して生存している女性によると、交際のきっかけはMから誘ってきたと述べている。また、Mは女性と性行為をする際に写真を撮影することがあり、Mが撮影した性行為の写真はBだけではなく、GやHのものも存在して監禁事件における材料として使われ、事件発覚後に警察に押収されたという。
Bを含む被害者たちだけでなく、過去の交際女性、会社の従業員、顧客なども標的にして苛烈な暴力を振るい、時には標的とした人々をマインドコントロールにかけて、本事件に近い形で暴行の共犯者にし、彼らに対して絶対的な存在として振る舞っていた。
事件発覚後に元妻は、「Mはとにかく自信家で大きなことばかり言って、人に夢を持たせる」「Mは自分を『世の中の救世主』と語っていたが、「Mと出会った人は全員不幸になった」「Mによっていつか死人が出ると思ってた」「多くの嘘で上塗りをしていくと、Mの中では本当のことになる」「あんな人間、二度と出てこない」という言葉を残している。
両親を含めた親族は取材を拒否している。なお、Mが経営していた会社の元従業員は「Mは暴力団幹部と付き合いがあった。Mの実父からピストルを見せられたことがある」と法廷で証言している。またMの親戚に結婚詐欺や手形詐欺など詐欺についての知識が豊富な人物がおり、事件前に他界しているものの、M家やMが経営する会社に出入りし、Mの詐欺はこの親戚の影響を受けていたという。
息子によると、服役中に糖尿病を患ったらしく、現在は目も見えず日常生活も助けを借りなければならないと言う。
状況によって、Mを除く生存者・死亡者たちは加害者になったり、被害者になったりした。
Mが経営していた詐欺会社「ワールド」の従業員は、Mの意向に沿わない行動を取ると、Mから虐待を受けることが多かった。BもMの指示で他の従業員らを虐待したり、Mや他の従業員から虐待を受けたりした。また、多くの人々がMの指示を受けた従業員らに騙され、粗悪な布団を高額な金銭で購入してしまった。Mは一連の殺人事件の前に、ワールドでの事件においてBとともに詐欺罪及び暴力行為等処罰ニ関スル法律違反の罪で指名手配を受けていた。
Mは事件中に偽名を用い、複数の結婚詐欺を行って多額の金銭を得ることが多かった。時にはBを「姉」、Cを「甥」として標的の女性に紹介することもあった。結婚詐欺被害者はたくさんいたものの、立件されたのは後述の「女性監禁事件」での監禁致傷罪、詐欺罪、強盗罪のみであった。また、少なくとも被害にあった1組の母子が不審な死を遂げている(「母子不審死事件」を参照)。
MはBを支配下に置く前に女性と結婚し、女性との間に1男をもうけた。女性はMからDV(ドメスティック・バイオレンス)を受けたり、女性と長男はMがBに対して暴力を振るう場面を目撃させられたりもした。この女性と長男は2人でMの下から逃げ出したため、Bと違って難を逃れた。
Mの証言によると、1984年秋にBの母から「Bと別れてほしい」と持ちかけられたという。Bの母としては、Mが妻と離婚してBと再婚して自分の家に婿養子入りすることを約束する「事実確認書」があるとしても、Mの法律婚は継続していたため、Mを完全に信用していなかったと思われる。
Mの証言によると、MはG(当時44歳)に人目の無い所で話がしたいと持ちかけ、彼女を郊外のラブホテルに連れ込んで肉体関係を結び、その後は会うごとに肉体関係を結んだという。一方で「GはBを心配しておらず、俺(M)に会いたがっている」とMから聞かされたBはGに嫌悪感を抱き、日記に「同じ血が流れているのが嫌になる」と書いている。Gのこの対応で、結果としてMが1992年までの数年間、法律婚を継続したままBとGと同時並行的に男女交際が継続となったために問題は一層複雑化し、BとGに緊張関係を生じさせる素地を形成した。またMとGの関係は地元では噂になっていた。
なお、Bは事件による逮捕後の法廷証言ではMとGの男女関係のきっかけについて「同意による関係でなく、強姦という形で関係を持った」と推測し、母Gについて「私がMと男女関係をもったために、母GはMと男女関係になり虐待されて殺害されるという形で事件に巻き込んでしまった。もし、母GがMと男女関係を続ける中で女として悦びを感じる瞬間があったとしても、私は母Gを恨んだり憎んだりしません」と擁護した。MはGとの肉体関係については向こうが積極的に誘ってきたのがきっかけと主張しているが、検察はBが主張する強姦説を取っている。
MとGの関係について、マスコミには「想像できないような大変センセーショナルな内容」「ミイラ取りがミイラになる男女の仲」「Mは愛人Bの母Gとも20年来の愛人であった」「GはMがこしらえた舞台で右往左往する大役を演じた」と表現された。
両親は長女であるBの結婚相手を跡取りにするつもりだったが、1985年にBが分籍して家を出たために、専門学校を卒業して歯科衛生士になっていた次女Hに見合いを勧める。
1986年7月にHは農協職員男性Iと結婚し、結婚式では約200人が集まって盛大に行われた。Hは見合いを勧められた当時、別に交際していた男性がいたが、親が勧める見合い結婚を断る余地は無く、家庭の縛りから逃げられない境遇に涙した。結婚式でHは花嫁として「白無垢」「色打ちかけ」とお色直しをしていたが、3番目は古式ゆかしい衣装である「黒留め袖」であり、Hの友人は前夜まで泣いていたHを思い出しながら「家のしきたりから自由になれない」と感じて涙したという。
IはF・Gと養子縁組して婿入りする形でHと夫婦になり両親と共に同居する。1987年に長女J、1992年に長男Kが誕生。子煩悩だった夫婦の家庭は外面的には順調であり、Hの友人はH一家は「仲のいい家族」と見ていた。
一方で結婚式の前にBはMの指示により、自分の実家に「Iの実家に財産をやるのか!」「家をメチャクチャにしてやる!」、Iの実家や仲人の親戚に「財産目当ての結婚だ!」等、たびたび嫌がらせ電話をかけた。嫌がらせ電話と、Bが家から勘当を受けているということもあり、BはHの結婚式に出席しなかった。IにとってHとの結婚前に家を出ていた義姉Bとは後述の1997年まで面識は無く、Bを「問題を起こす義姉」「一家の厄病神」と見ていた。
話は前後するが、Mは高校時代にバス停で出会った年上の社会人女性と3年間交際。1982年に布団販売業を経営していたMは交際相手の女性にプロポーズをして19歳で結婚。
一方でMは他の複数の女性と浮気をして結婚後も不倫を重ねたが、妻はこのことを知っていた。妻は最初の頃はやめてほしいとMに言っていたが、次第に感覚がマヒして辛いと思わなくなった。1982年12月24日にはMが入れ込んでいた音楽好きの女性に「バンドをやっている」と口説き、嘘を本当にするために楽器や音響機器を揃えて従業員に1ヶ月特訓をさせ、1100人収容の久留米の大ホールに50人ほどの客の前でバンドの演奏に乗ってMはボーカルを担当し、音楽好きの女性に向けて「最高のイブ!」と声をかけた。この時、ホールの客にはMの子を妊娠していた妻だけでなく、Mと数ヶ月前に肉体関係を結んだ愛人Bがおり、他にも愛人がいたとされる。妻はBとは初対面ではなく、小学生時代に学校で一緒に遊ぶ等の交遊関係があった。妻は後にBがMの事務所に寝泊りするMの愛人と知るようになる。
1983年に長男が誕生したが、恋人時代から続いていたMの暴力は止まらないために妻は逃げ出すことも考えた。しかし、Mから逃げることにより、子供をMに取られる可能性があるため、子供を連れて逃げるのは難しいと躊躇した。
Bは愛人としてMが経営する事務所で寝泊りをするようになり、妻はBと共にMから度々暴行を受ける。Mに暴行をされた際には妻は大声で喚いたが、Bは声を上げずに耐えており、妻は「Bが暴行に声を上げずに耐える」のを不思議がった。また、妻と子の前でMがBを暴行した際、マヨネーズを台所の床に落として舐めることを命じたことに、妻は「子供の前ではやめて!」と叫んだが、Bは抵抗する素振りを見せずに床に落ちたマヨネーズを舐め続けた。このようにBと妻は同じように暴行を受けても、Bは妻よりもMに従属的だった。
Mが暴行して入院したBを不審に思った担当医が警察に通報し、警察がMの事務所に来て任意同行を求められる。妻はMの逮捕を確信し「殺人事件とかになる前で本当によかった」とMからの暴力解放を喜んだ。しかし、数時間後にMは逮捕されずに戻ってきた。
Mの義父(妻の父)はMの性格を疑って結婚後も信用しなかったので、Mは義父の前では粗暴な対応を見せなかったが、義父の死亡後にMが実家でも平然と暴力を振るったことがきっかけとなり、1992年1月に妻は長男を連れてMから逃げて警察署に駆け込んでDVの被害申請をし、紹介された相談所で仮住まいをした。Mは居所を突き止めようとしたが、市役所が住民票を移さないまま長男の転校等を特別に許可するなどの対応をとったために難を逃れ、2ヶ月後にMとの離婚が成立した。
事件発覚後に元妻は「もしあの時、逃げなければ、私がBのように家族を殺していたかもしれない。」「私と子供さえよければいいという考えからBを見捨ててしまい、BはMに連れられてしまった。Bには申し訳なく思っている。」という言葉を残している。
Mは二束三文の布団を高値で販売するために、暴力や「ヤクザ」という言葉を挙げて客を脅して無理やり布団を買わせるなどの詐欺的商法をしていた。1987年5月には会社をM商店からワールドと改名し、会社の営業項目は大商社の登記簿をそのままコピーして「貿易業、船舶、石油、航空機、鉄、自動車、海運」となっていたが、詐欺的商法には変わりなかった。
Bは幼稚園退職後はMの会社で働くようになる。Mの会社で働くようになったBは、自分を懇意にしていた人物を騙してカードを作って金を詐取し、抗議された際には「うちの会社を潰す気か!」「借金返せ!」「どういうつもりなの!」と、その人物に逆捩じを食わせ、怒声を浴びせるようになった。Bのことを昔から知る人物は「まるで別人のように性格が変わった」と述べている。Mの妻が去ったことでBは愛人から内妻という立場になった。
Mはこの頃から社員に対して序列をつけ、序列の下位の者を虐待したり、上位の者に下位の者を虐待させたりした。Bも他の社員を虐待したり他の社員から虐待されたりしている。
Mはこの商売で1億8000万円を荒稼ぎしていた。しかし、Mが暴力を振るうため社員らが次々と脱走し、業績は悪化。さらにこの詐欺的商法が警察の知るところとなり、1992年7月に詐欺罪と脅迫罪で警察に指名手配され、MとBは最後まで残っていた男性社員と3人で逃亡する。Mの会社は9000万円の債務を踏み倒す形で倒産した。
MとBは一時的に石川県に逃亡していた。金の工面をしていた男性社員も虐待に耐えかねてMから逃走した。(この男性社員への虐待は刑事事件になっていない)
詐欺事件と脅迫事件の指名手配は1999年7月に公訴時効が成立した。
また、Bは逃亡中に長男Cを出産した。
MとBはMの出身地で土地勘のある北九州市内に戻り、Mの知人である不動産会社勤務の男性Eに接近。MはEが勤務する不動産会社を通じて複数のマンションを確保し、潜伏アジトとした。契約者の名義はMの複数の交際相手である。Mは予備校講師を偽ってEの姉(Aの伯母)に接近した。Eの姉は夫との不和を相談に乗ってもらい、結果、夫と離婚、Mの交際相手の1人となっていた。Mがマンションを確保する際、不動産会社に勤務するE自身が連帯保証人となることもあった。しかし、仲介者であるE自身が当該不動産の保証人となるこの行為は宅地建物取引業法違反であった。この時にMが確保したマンションの1つが、後に発生する数々の殺害事件の舞台となった。
当時、男性は交際相手である保険外交員の女性と同棲していたが、Mから競馬のノミ屋に関する儲け話に関する新会社設立を聞かされたEは同棲していた女性と別れ、Eの実娘AはBが養育するとしてMが確保したマンションに移り、Eは社宅で過ごしながらMが確保したマンションに通うようになった。
Eはまた、仕事で部屋の消毒作業をしないまま「消毒済み」として工費を着服していた過去があった。酒に弱い体質のEを酔わせ、この事実を聞き出したMは「犯罪だ」とEを追及して弱みを握る。そして、Eは室内ではMからカツラを取られるようになった。Aは父Eがカツラであったことを知らず、Eの禿げ頭を目にして驚いたという。さらに、MはEに「娘Aに性的虐待をした」「会社の金を横領した」「Bに対して強姦未遂を犯した」などと事実と異なる事実確認書を書かせ、弱みにつけこむ。Eは出社できなくなって職場を退職すると、社宅を離れてMらのマンションに引っ越すことになり、Mはさらに虐待を加速させた。
既にEへの虐待に加担していたBは、Mの不在時もEへの虐待に手を抜かなかったという。これはMが突然現れて抜き打ちのチェックが入り、手加減を見つかればMから制裁を受けるので、それを恐れたためであった。事件発覚後、法廷における証言でAはMだけでなくBのことも「悪魔」と表現した(後述。のちのBの無期懲役確定時にはBを許せないとしながらもBも被害者なのかもしれないと述べている)。この中でも、男性は反抗的態度を一切見せずに、死亡数日前に、次男Dを妊娠していたBに対して「元気な赤ちゃんを産んでくださいね」と言うなど、Bのことを気づかっていた。
虐待はMが主導して行い、BだけでなくAを虐待に加担させることもあった。Aは父Eを手拳で殴ったり噛み付いたりするように指示されたこともあった。
1996年2月26日、MはBに指示して通電を繰り返したり、食事を満足に与えないなどEを虐待して衰弱死させた(第1の殺人)。裁判では未必的な殺意が認定された。
MはAとBに遺体の解体を命じ、Eの遺体は海に遺棄された。Bは身重の身でEの遺体の解体作業を行ったが解体を終えた直後に陣痛が起こり、大分県の病院に駆け込んで次男Dを出産している。
MはAに対し死亡直前のEに歯型がつく程噛ませた後に写真を撮り、Aに「父Eを殺したことを認める」とする事実関係確認書を作成させ、父の殺害に加担した罪悪感を植え付けて虐待を繰り返し、監視下に置いた。
話は前後するが、Mは死亡前のEによって北九州のマンションを居場所とした後で、同窓生だった女性と接触する。この女性は夫を持つ身であったが、Mから結婚を持ちかけられたことで夫と離婚した。
その後にMは結婚を餌に金を要求し、女性は別れた夫やその親から様々な名目で金をむしり、計1880万円の金がMに流れた。やがて夫や親からの送金が途絶えるようになり、1994年3月31日に女性(当時32歳)は大分県の別府湾に飛び込み自殺した。死亡した女性の父親によると、「遺体を引き取りに行った時、家を出た時と同じ服装だった。1300万円近い金額を送金したのに、預金口座には3000円しか残っていなかった」と述べている。。
その5ヶ月前の1993年10月29日には、女性の次女(当時1歳)は頭部強打という形で急性硬膜下血腫で死亡。その際に、指名手配中のBが当時存命中だった次女の母親を騙って搬送された病院に付き添ったが、「椅子から転がり落ちて頭を打った」と説明している。
2002年にMらが逮捕されて以降、この事件についてMらによる犯行が疑われた。逮捕後にBは「女児死亡については現場にいなかったので知らない」「女性は死亡する日までMから殴打や通電といった虐待を受けていた。死亡した日はMと共に別府市のホテルに行き、ホテルのフロントで女性に抱かせていた自分の長男を渡された後、女性が海に向かって走り出して投身自殺をした。その後、救急車のサイレンが聞こえたので北九州に逃げた」と供述している。この母子の死亡は「限りなく他殺に近い」と表現されたが、刑事事件とはならなかった。
Eの友人の元妻である女性(当時36歳)にMは死亡前のEを介して知り合い、言葉巧みに近づいて結婚を約束。この女性には3人の子供がいたが、長男は前夫に親権を渡し、長女は受験勉強の塾通いのために実家に預け、次女(当時3歳)を連れてこさせて、M・B・Cと同居を始めた。Mによって女性は職場を退職させられた。
1996年12月30日から翌1997年3月16日にかけ、Mは女性と次女を北九州市のアパート2階の四畳半和室に閉じこめ、連日虐待した。虐待はBに行わせることもあった。またMの命令で女性が次女に虐待していた。3月16日未明、女性は隙を見て部屋の窓から路上に飛び降り脱出した。女性の逃亡後、Mは次女を女性の前夫宅の玄関前に置き去りにし、同居していたアパートをすぐに引き払って姿を晦ました。女性はその後、精神科に長期入院した。2002年に事件発覚した頃、この女性はPTSDを患って摂食障害に苦しみ、生活保護を受け生活していたことが判明している。
上記の事件について、MがAやBや事件当時の生存者に遺体の解体と遺棄を命じた。Cの証言によると、C自身も遺体遺棄に加担させられたり、遺体遺棄を目撃したりしている。
H一家は熊本県玉名市内の賃貸アパートの家賃が1998年3月に振り込まれて以降、連絡が途絶えたことに不審に思った管理人が合鍵で室内に入りランドセルや携帯電話が確認された。
F一家6人の失踪後、北九州市小倉北区内の駐車場でF名義の乗用車が見つかった。駐車場の管理人から連絡を受けたFの親族が車を引き取った(この車は2002年に事件発覚した際には警察に任意提出された)。
Bの証言によると、一家6人が死亡した直後にMからBに対し「おまえと子供たちがいるから俺は迷惑なんだ。Aと2人なら、俺はEに成り済まして、ちゃんと生きていけるんだ」と言い、C・Dを殺して自殺するという親子3人の心中を命令されていた。しかし、CとDはMからBがいかに悪い母親か聞かされていたため、Bは親子3人の心中を実行することができなかったという。また、C自身もMから「お前は本当の息子じゃない」「お前さえいなければBと別れられる」などと何十回、何百回言われていたという。
そこで、Mは新しい金主として夫との不仲に悩む専業主婦に焦点を当てる。Mは女性に対して悩みを聞きだし、夫と離婚して自分と一緒になることを求めた。Mは女性に対して「夫の狙いは子供だから子供だけでも私が預かって隠したほうがいい」と女性の2人の子供(双子)を預かる一方で、養育費名目で金を要求した。女性が金を工面できなくなるとMは紹介した風俗店で女性を働かせて、女性から約2500万円を貢がせていた。
女性の2人の子供(双子)とCとDの計4人はAとBによって育てられることになった。その際に、Cは外出先のMから電話を通じてAに暴力をふるうこともあった。
この事件は被害届が出されていないこともあって、刑事事件となっていない。
2002年1月30日に少女AがMの隙をみて、北九州に住む祖父母の家へ逃亡。逃亡に成功したAは半月ほど祖父母と一緒に暮らしをしてアルバイト先を決めたり、国民健康保険に加入したり、預金口座を作るなどして生活の基盤を築き始めていた。しかし、AはMによって父が死亡したことについて罪悪感を持っていたため、父の死を祖父母には伏せていた。
AはMの命令によりお小遣いの名目で金を調達するために祖母とはそれまでも何回か会っていた。その際にMの支配下に置かれていたAは祖母との会話中に、死亡した父に関する質問には「出張中でほとんど逢っていない」としか言わず、現在の住所の質問には「一々聞くと、もう逢わんよ!」と血相を変えて怒ることで質問を封じていた。Aは祖母と会話が終わった直後に隠れて公衆電話や携帯電話でMと連絡を取っており、その様子を目撃していた祖母から不審に思われていた。
Aは生活の基盤を築き始めていたが、2月14日にMの交際相手であるAの伯母からMに行方が発覚する。Mは「Aが金を盗んだりシンナーなどの非行をしており、このままだと父に叱られる」などの嘘話を展開してAの祖父母と伯母を信じ込ませ、Aを強引に連れ戻した。Aは連れ戻される直前に祖父母に「おじさんの話は全部嘘。迎えにきて」と走り書きのメモを渡す。
その後、AはM及び支配下のBから首を絞められたり通電されたり、Mの命令で自分の血で「もう二度と逃げたりしません」の趣旨の血判状を書かされたり、5分以内にAの右足の親指の爪をラジオペンチを使ってA自身に剥がさせるなどの虐待を受けた。なお、Bも逃亡に失敗した時に爪をラジオペンチで剥がされていた。
2002年3月6日、少女A(当時17歳)が虐待から逃れて祖父の家に助けを求めてきて虐待事件が発覚した17歳少女監禁、虐待の男女逮捕 - ウェイバックマシン(2004年11月24日アーカイブ分) - スポーツニッポン(2002年3月9日)。Aは父と一緒に映った写真を密かに所持しており、心を繋ぎとめていた。
翌3月7日、MとBはAに対する監禁致傷罪で逮捕された。MとBは、容疑や名前も含めて完全黙秘を続け、身分証は偽造されたものばかりであったため、当初は身元が不明であったが、Bが所持していた高校時の写真集をきっかけに判明した。
当初はMとBの2人によるAへの傷害と監禁事件と思われた。その後、Aの証言により、MとBは、Eの知り合いで、5年 - 6年前から4人で暮らすようになったが、暮らし始めて約1年後にEが行方不明になり、その後は3人で暮らしていたことが判明する。
後日、別の場所で、AとBが世話をしていた4人の子供が発見された。CとDについてはDNA鑑定でMとBの子供と判明した。残り2人は双子で、別の女性の家庭の不和につけ込んで預かった子供であった。
数日後、Aが「父はMとBに殺された」と証言したため、殺人事件として捜査が開始、事件の解明は大きく動いた。さらにAは、F一家6人が殺害され、遺体は解体されて海や公衆便所などに捨てられたと証言したため、大量殺人事件として捜査されるようになった
警察は、Aの証言を元に「殺害現場と思われる場所の配管」まで切り出し、DNA鑑定を行ったが、Mが配管や浴室のタイルを交換するなどの証拠隠滅工作をしたことや、7人の遺体が既に完全に消滅しているために、物的証拠が何もないという状態であった。
Aは4人(E・F・J・K)の死亡状況を見ていた(JとKの殺害については自らも関与した)が、他3人(G・H・I)の死亡状況は見ていないため殺害方法も不明であることから、捜査は難航した。しかし、長い間黙秘をしていたBが2002年10月23日に自供したことで、改めて事件の概要が判明した。脅迫や虐待をされる中で被害者たちが作成させられた「事実確認書」等の書類、AとBの供述から解体に使われた鋸やミキサー等の死体処理道具を購入した時期を示す領収書、AとBの証言からE殺害事件に使用されて河川に遺棄された鋸の発見、死体解体時の音や匂いやゴキブリの大量発生を不審に思ったマンション住人の証言など、物的証拠がほとんど無い中で間接証拠が集められた。
Bは逮捕後の拘置所生活について「食事もできるし、お風呂にも自由に入れるし、トイレにも自由に行かせてもらえるし、読書の時間さえある」と語っており、Mの支配下の生活の過酷さを物語った。
AとBに育てられていた4人の内、被害女性の子供2人は親元に戻された。CとD(当時9歳と6歳)は児童福祉施設から小学校に通うようになったが、当時9歳だったCは今までの人生について「あまり面白いことがなかったから、0歳から人生をやり直したい」と感想を残している。CとDは出生届すら出してもらえず、Cは教育を受けずにいきなり小3に入った。
2003年7月に空の骨壺に6人の顔写真を入れて一家6人の告別式が行われた。またH一家4人の全員の集合写真がなかったため、Iの実家には合成したH一家4人の集合写真が飾られている。
第一審の刑事裁判は、福岡地方裁判所小倉支部にて開かれた。
M・B両被告人の初公判は、監禁致傷罪などについて、2002年6月に開かれた。しかしその後、殺人容疑での再逮捕が相次いだため、公判期日が当初の予定より延期され、2003年5月の第3回公判から、殺人罪などの審理が開始された。
一連の殺人事件について、最後の追起訴は、2003年6月だった。最終起訴から2年以内に、第一審判決を言い渡すことを目指す、裁判迅速化法に基づき、2003年10月以降は、週1回のペースで集中審理し、実質的な審理は、2005年1月26日の第72回公判まで行われた。
BはEとFの死亡について傷害致死を主張したが、他の5人の殺害を含めて全面的に刑事責任を認める。一方でMは死亡事件について当初は全面無罪を主張した。このように、両被告人の方針が分かれた場合は、分離公判になることが珍しくないが、Bが「最後までMという男を見届けたい」とMとの併合審理を希望したため撤回された。
Mは「7人の死について事故やBらが殺害したものによるもの、F一家の問題への関与を避けていた自分に責任はない」と主張した。Mが主張する各死亡原因は、E「風呂掃除中に転倒して頭を打った」F「Bが通電したため」G「Bが私と男女の仲だったGを憎み家族を巻き込んだため」H「夫IがHの男性関係を憎み家族を巻き込んだため」I「肝機能障害を抱えていた中で外食の飲み過ぎ・食べ過ぎ」K「BとJが殺害したと聞いた。BがKの親を殺したために復讐封じとして」J「AとBが殺害したと聞いた。BはJの口を封じた」と主張した。さらにMは「自分には殺す動機が無い」として、F「高圧ガスやボイラーの取扱免許で会社設立で稼げるので」G「一家支配において自分の右腕として働いていたので・入院給付金等が入った」H「クラブで働かせて金を稼げるので・無借金だからサラ金で借りられるので」K「父の実家が可愛がっており生かしていれば金を巻き上げることができるので」J「京都の舞妓さんとして働かせて金を稼ぐつもりだったので」と主張した。さらにMは「自分はEとF以外の死亡現場には立ち会っていない」「Fの死亡前に子供たちを旅館に移動させたので、子供たちはFの死亡を目撃してない」と主張して、殺人罪と傷害致死罪の無罪を主張した。また、「自分はBとGとHと肉体関係があったため、Iを含めた各自が嫉妬して三角関係にまきこまれた被害者」とも主張していた。ただMの主張には「Fの会社設立は借金状態から無理」「無職のHにサラ金から借金できない」「Fの死亡を目撃していたAは死亡経緯を詳細に証言できた」等の矛盾が多く、変遷することも珍しくなかった。極悪非道な手口で7人の命を奪った凶悪大量殺人事件にもかかわらず、法廷でのMの発言は煮ても焼いても喰えないような言葉ばかりで、漫談を聞いているような錯覚に陥り一気に緊迫感が無くなることが度々あったという。
また、以下の証人の証言が注目された。
2005年3月2日、論告求刑公判が開かれた。検察は、被告人M・B両名に対し、いずれも死刑を求刑した。論告で検察側は、「善悪の箍が外れた発案者Mと指示にひたすら従う実行者Bとして、車輪の両輪とも言える関係に成り果てていた」と表現し、「稀代の連続大量殺人事件で両被告の刑事責任は我が国犯罪史上、比肩するものがないほど重大である。金蔓として利用価値がなくなった被害者の口封じに7人も抹殺するという鬼畜の所業をやってのけた両被告には極刑を持って臨むのが相当」と表現した。MとBの関係について、佐木隆三は「鞭を振るう御者Mと直走る馬B」と表現している。
2005年4月27日、第74回公判にて、Bの弁護人による最終弁論が行われ、弁護人は死刑回避を求めた。
そして、同年5月11日(第75回公判)、5月18日(第76回公判)と、2度に分けて、被告人Mの最終弁論が行われた。Mの弁護人は、全面的に無罪を主張し、初公判から3年半にわたった公判が結審した。
2005年9月28日、第一審・福岡地方裁判所小倉支部(若宮利信裁判長)は判決公判で、M・B両名に死刑判決を言い渡した。
Mの支配下に置かれてお互いを憎み合っていたAとBの証言がほとんど一致し、Bは自分にとって不利なことも進んで証言していること、一方、無罪を主張するMの証言には矛盾が多く一貫性がないことなどから、MとBが7人を死に至らしめたと認定した。ただし、Bが主張していたAの父とBの父の傷害致死については、Bの父については「蘇生させようとした」ことから殺意はみとめられないとして「傷害致死」としたが、Aの父を含めたそれ以外の死亡を「殺人」と認定した。なおBの妹夫婦は殺害に関与しているが、MとBが事件に2人を巻き込んだ経緯から、判決では「何の落ち度もない被害者」とされている。
裁判所は一連の事件を「甚だしい人命無視の態度には戦慄を覚える」「残酷、非道で血も涙も感じられない」「悪質さが突出し、犯罪史上稀に見る凶悪事件」と厳しく非難し、Mを「一連の事件の首謀者であり最大の非難に値する」「真摯な反省や謝罪が無く、犯罪性向は強固で根深く矯正の見通しは立たない」、Bを「被害者に対して常に高圧的な態度で臨むなど、主体的で積極的に加担した」と犯行を糾弾した。
Bに対しては、「各犯行を真摯に反省悔悟し、被害者ら及びその遺族らに深く謝罪する気持ちを持っている」「真相解明に寄与した」、「被害者らに通電等の暴行、虐待を加えたのはあくまでもMの指示があった場合であり、Mの指示がないのにBのみの意思でそれらの行為を行ったことはない」「Mとの生活は、Bがその意思で選択したとはいえ、Mから度々通電や暴行を受けたり、すべての責任を押し付けられたりして、決して安穏なものではなく、苦労も多く自殺を考えたこともあるほどであった」「Bの犯罪性向は矯正不可能とはいえない」など有利な事情も認めた上で死刑を選択した。
Mは判決を不服として、同日付で福岡高等裁判所に控訴した。Bは当初、死刑判決を受け入れるつもりでいたが、暴力の影響や支配構造等の事件の核心を審理する事を理由に控訴を決めていた弁護団の説得に同意し、同年10月11日付で、福岡高裁に控訴した。
二審でBの弁護団はBの心理鑑定、Mに撮影された裸写真の法廷提出、法廷における「DV」という言葉の多用、性暴力被害の専門家の法廷証言、性暴力被害者団体による刑の酌量軽減を求める署名など、一審にない手法を用いて性暴力を含めたドメスティック・バイオレンスの観点から事件当時はMの激しい支配下に置かれていて、責任能力はなく心神喪失状態であったとし、無罪を主張した。
2007年9月26日、福岡高等裁判所(虎井寧夫裁判長)で控訴審判決が言い渡された。福岡高裁は、被告人Mの死刑判決を支持し、控訴を棄却した一方で、Bについては死刑判決を破棄し、無期懲役判決を言い渡した。判決理由で、福岡高裁は「Iが元警察官でありながら解体作業や殺害などに加担したことから、Mによる通電などの虐待が被害者の人格に影響を与えていたことを考慮し、Mに暴力支配を受けており従属的だった」と指摘し、捜査段階での自白や公判での反省の態度も考慮した。ただし、「Bが主体性を失っていたとは言えない」とし、無罪とはならなかった。
無罪を主張していたMは判決直後、弁護人に対し「証拠の評価を誤った不当判決」として上告の意向を示し、同年10月5日付で最高裁判所へ上告した。
一方で無期懲役判決を受けたBについて福岡高等検察庁は2007年10月4日に「被告人Mとの共同正犯と完全責任能力を認めたのに死刑判決を破棄し、量刑を無期懲役に減軽したことは納得できない」として上告の方針を固め、最高検察庁と協議した上で2007年10月9日付でBについて「最高裁の死刑に関する判例に違反する」として最高裁へ上告した。その一方でBの弁護人は「主犯Mの巧妙で長期間に渡る支配に対し深い洞察や理解を示す判決で、控訴審でBが訴えたかったことを理解していただけた」として上告期限となる10月10日までに上告しなかった。
2011年9月21日までに、最高裁判所第一小法廷(宮川光治裁判長)は、Mについて、上告審口頭弁論公判開廷期日を、同年11月21日に指定し、関係者に通知した。
2011年11月21日、最高裁第一小法廷(宮川光治裁判長)で、上告審口頭弁論公判が開かれた。弁護側は、「Mは、一連の犯行に関与していない」として、無罪を主張した。一方、検察側は、「Mは、Bに暴行を繰り返し、言いなりになるよう仕向けた上で、自らの手を汚すことなく、全ての犯行をBらに実行させた。Bは度重なる暴行により、逆らう事はできない。Bと違い改悛の情は全くなく、それゆえ遺族らの処罰感情も峻烈だ。Bより罪が重いことは明らかであり原判決は正当」と述べ、一審で検察側が認めなかったMとBの支配関係を検察が自ら認め、M・弁護人の上告を棄却するよう求めた。
2011年11月29日までに、最高裁第一小法廷(宮川光治裁判長)は、Mについて、上告審判決公判開廷期日を、同年12月12日に指定し、関係者に通知した。
2011年12月12日、最高裁第一小法廷(宮川光治裁判長)は、上告審判決公判で、被告人Mについて、一・二審の死刑判決を支持し、被告人・弁護人側の上告を棄却する判決を言い渡した。その後、Mの死刑判決が確定した。
一方で、Bの控訴審・無期懲役判決に対する、検察の上告についても、最高裁第一小法廷(宮川光治裁判長)から、同日付で棄却決定がなされ、Bの無期懲役が確定した。この決定は「死刑の選択も十分考えなければならないが、異常な虐待を長期間繰り返し加えられ、指示に従わないことが難しい心理状態の下でMに追従して犯行に加担した点や、捜査段階での自白が真相解明につながった点も、極刑に処するほかないとは断定しがたい」とした最高裁判所裁判官5人中4人賛成の多数意見だったが、横田尤孝裁判官は「抵抗する力も言葉も持たない5歳の甥と10歳の姪の殺害を実行した。諸事情を全て被告に有利に考えても、他に例を見ない凶悪重大性に鑑みれば極刑で臨むほかない」「Mから理不尽な虐待を受けていたからと言って、類を見ない凄惨な犯行に及んだ者の刑事責任が軽減されるのはいかにも不当」と死刑寄りの反対意見を出した。
2017年9月22日現在、Mは死刑囚として福岡拘置所に収監されている。
福岡県警察は、2002年にE殺害事件が発覚した際に「Aは遅くとも中学校に入学した1997年4月以降は、周囲に相談したり通報したりすることができた」が1999年4月で申請期限が過ぎたとして犯罪被害者給付金は支給できないと判断して、Aや親族に給付金制度の存在を知らせていなかった。2006年2月に犯罪被害者給付金制度の存在を知ったAは福岡県公安委員会に対し、父E殺害事件について犯罪被害者等給付金支給法に基づき給付金を申請した。福岡県公安委員会は、申請時点でEが殺害されてから10年が経過しているとして、2007年3月に申請を却下し不支給と裁定。不支給裁定に対し、Aは「申請に必要な死亡診断書や死体検案書などが存在しないこと、実質的に監禁されていて申請できなかったこと」などの理由を挙げて、福岡地方裁判所に支給を求め訴えを起こした。
2010年7月8日、福岡地裁(高野裕裁判長)は、「Aには期限内に申請ができない特別な事情があったのに、機械的に申請期限を当てはめるのは、被害者救済を目的とする制度の趣旨や正義の観念に著しく反する」とし、殺人が認定された刑事訴訟一審判決の2005年9月を申請期限の起点と認定し、福岡県公安委員会の裁定を取り消す判決を言い渡した。
福岡県公安委員会は判決を不服として、福岡高裁に控訴したが、2010年11月30日、福岡高裁(古賀寛裁判長)は、第一審判決を支持し、県公安委側の控訴を棄却する、控訴審判決を言い渡した。
福岡県公安委員会は控訴審判決を不服として、最高裁に上告したが、2011年9月2日付で、最高裁第二小法廷(竹内行夫裁判長)は、不支給裁定を取り消した一・二審判決を支持し、福岡県の上告を棄却する決定をした。これにより、不支給取り消しが確定したため、福岡県公安委員会は、同年9月15日付で、Aに給付金を支給した。
Mがこの事件で用いた手法は以下の通りである。
Mはまず対象者に言葉巧みに近づいて信用させる一方で、何かしらの弱みを握る。Mは対象者に酒を飲ませて言葉巧みに気分をよくさせて相手側から弱みを吐かせることが多かった。
そして、Mは相手の弱みに乗じて対象者に自分に金を持ってくることを要求した。ただし、Mは「お金を持ってこい」とはあからさまには脅さずに、「これはお金を持ってこいと言っているんだな」と思わせるような遠回しな言い方をして脅していた。また、Mは家族を対象とする時は他人に知られたくない弱みを握った際に家族全員をいきなり脅すことはせず、家族を二分にさせた上で双方に弱みをちらつかせることで、家族同士が無理を重ねてかばったり憎みあうように仕向けていた。
Mはこのような対象者を「金主」と呼んでいた。Mのターゲットとなった者は「純粋な性格」「警戒心が薄い」「間が抜けている」「世間体を気にしている」「実家がそこそこ裕福である」「子供がいる」といった特徴があるとされている。
相手の弱みを握ったMは弱みをちらつかせて被害者に対して様々な暴力・虐待を強いた。
特に電気ショック[要曖昧さ回避]はMが相手を支配するのに非常に重要なツールだった。原点はMが経営する会社に在籍していた工業高校電気科卒の従業員から得た知識を生かして考案したものであった。当初は軽い痛み程度のお遊びであったが、それを目撃したMが関心を示し、電気ショックを虐待に使用できるようにしていった。Mは電気ショックを「通電」と呼び、裸にした電気コードの先にクリップをつけ身体に挟んで瞬間的に電流を流す方法が主に用いられた。激痛が走り目の前は真っ白になり患部は火傷を起こし酷い時には水膨れになる。通電する際の部位には手・腕・足・太股・乳首・口や耳や顎など顔が対象であった。それだけではなく、サディズムの象徴である性器に対し、男女関係なく通電した。女性に対する性器の通電は裸で仰向けに膝を曲げて寝かされた状態でMに通電された。2人の女性が横に並んで同じように裸で仰向けに膝を曲げて寝かされた格好でMに性器を通電されたこともあった。男性に対する性器の通電は、下半身裸で直立不動にさせてだらんと垂らした性器を2人の女性によって通電させたこともあった
通電を受けた者から「顔面に通電されると、1秒でさえものすごい衝撃で激痛が走り、意識が遠のいて目の前が真っ暗になり、このままどうなるのかという恐怖感があった(B)」「顔面への通電で判断力を失い、何も考えられなくなったことがある。生きていくのが嫌になり、生きていたいという意欲が削がれた(B)」「肉が食い込み、締めつけられ、千切れるような熱感で身体が捩れ、息ができず歯を喰い縛った(元従業員)」「脳天に突き上げられる衝撃で目の前が真っ暗になって倒れて気を失った(元従業員)」「筋肉が引き攣って痛くて火傷をし、一発で気持ちを圧し折られてしまう(Mから通電された男性)」「乳首に通電されるとちぎれるような痛みがあり、心臓がバクッとして胸にドンという電気の衝撃があり、仰向けに倒れたことがあった。眉毛への通電では、目の前に火花が散って真っ白になりそのまま失神した(監禁女性)」、性器の通電を受けた者から「性的な意味で自分という人間を否定されるような屈辱感があり、石にでもなってしまいたかった(B)」という証言が残っている。
Mは通電について、Bを含む被害者らへの躾が目的の「秩序型通電」とMが腹を立てた時の「激昂型通電」の2種類であったとしている。通電の前には必ず理由が言い渡され、どんな些細な出来事も理由になった。
Bは「Mは通電を含めた虐待を酒を飲む際の肴にしていたように感じた」と証言している。
なお、10歳女児であるJや1996年 - 1997年監禁事件の3歳女児、まだ幼いCとDも通電を含めた虐待の対象となった。5歳男児であるKは通電こそ免れていたが、食事制限を含めた虐待は受けていた。
Mは数々の「事実確認書」などの文書を作ったり、作らせたりした。これらの中には「弱み」「虐待」を盾に被害者に作らせたものもあった。
主に以下のようなものがあった。
また、これら文書の多くに「和やかな雰囲気の内に作成した」という不自然な一文が記入されていたり、文書を読み上げてテープで録音するなどしており、これに基づきMは「全員が納得の上で文書を作成した」と主張した。
Mは相手の「弱み」「虐待」「文書」を盾に、「衣服」「移動」「睡眠」「食事」「排泄」「外出」など様々な生活制限ルールを強いた。
これら生活制限ルールの違反をした被害者は、Mによるさらなる虐待を受けた。これらによって被害者は精神的に追い詰められることになった。その一方で、Mは時々外食をさせたり、マンション内の食事に1品つけることがあり、被害者たちに幸福を感じさせて一層Mに服従するように仕向けた。
Mは相手の「弱み」「虐待」「文書」を盾に、「食事」「排泄」「睡眠」「外出」など様々な生活制限を強き、自分を頂点とする密室の支配構造を強いて被害者を序列化した。通電される者は下位の人間であり、どんなに些細な理由でもMの意向で被害者は通電された。
またMは、被害者が別の被害者の悪口や不満を述べれば序列の下位から免れるように仕向け、Mは被害者たちの悪口を聞き出したりMがそれらの悪口や不満を当事者である被害者に吹聴させることによって、被害者たちがお互いを憎しみ合うように仕向けた。Mがいないところで被害者同士が集まっている部屋で盗聴していることを匂わせ、Mがいない場所でもMに逆らう言葉を話し合わせないようにした。また被害者はMの指示で上位の被害者が下位の被害者に対して通電するようになり、逆らえば序列の下位に落とされて通電されるため逆らえず、誰かが下位に下がれば他の者は安堵し、家族を裏切ることも厭わずにMの歓心を得ようとしてMに絶対服従するようになった。
そのため、AとBを含めた被害者たちは敵対関係に陥って個々人が孤立してしまい、一致団結してMに逆らうということが無くなった。
またこれらのマインドコントロールは、後に被害者が親族である他の被害者を攻撃することに抵抗感を無くさせ、Mは自らの手を汚さずに被害者に殺人や死体解体をさせる素地のひとつとなった。
これらMによるヒエラルキー構造は「「ワンマン的リーダーM」と「Mの利益を最優先目的とするMの指示を絶対視して絶対服従する複数の奴隷」」「支配と服従の密室」「人間を完全に受動的存在たらしめるためのM流ドクトリン」「秩序もなにもない密室」「密室の中での絶対的な権力」と表現された。
Bが逃げてひっそり湯布院でホステスとして働いたときに、Mは、Bの家族にBへの怒りを抱かせるような嘘をつくなどして協力させ、Mが自殺したとのうわさを隅々に流し、Bの家族を取り込んで葬儀を捏造し、Mが死んだと思い込み葬儀に来たBを、Mが押し入れに隠れて捕まえ、激しく殴った。また、Aが1回目の逃亡をした時は、Aの祖父母を「Aは窃盗やシンナー吸引などを犯していてこのままだと父親に殴られそう(実際にはAの父はすでにMが殺害している)」という口からでまかせの嘘で騙し、Aを連れ戻した。
逃亡に失敗した時のAとBにはいずれもMたちから激しい虐待が行われた。
Mは直接実行をしなかったが、Bらへのマインドコントロールを通じて、以下のことを実行した。
3歳女児まで虐待したり、児童Aや元幼稚園教諭Bに児童を殺害・死体処理をさせたり、元警察官であるIに殺害・死体処理をさせたり、10歳女児Jに家族の殺害・死体処理をさせたり、残った女児Jも容赦なく殺すのは前代未聞である。第一審判決では、この点について「見逃せないのは、児童が犯行の巻き添えや痛ましい犠牲になっていることである。これらは犯行の残忍で冷酷な側面を如実に示している」と指摘している。
また生存者であるAも死体処理に加担し、また殺害において1人は首を絞めて直接絞殺し、もう1人は足を押さえて殺害行為に加担し、計2人の殺害をしたことになっている(なおAは当時13歳だったため、14歳未満の刑事責任を問うことを禁じた刑法の規定により刑事責任には問われない)。Bは裁判では、Mの上記の狡猾な手法によって意思を抑圧され犯行に加担させられた「間接正犯」と主張したが、退けられた。
この事件の死亡者は、
といった、他者から見て不可解な行動を見せている。死亡者の場合は、「死人に口なし」として行動心理を本人から聞き出せずに不明なままとなっている。
死亡者の親族であり生存者であるBは、
と答えている。なお、BはFとGがMに従っていた理由として、「両親がMの言うことに従わなければ、親戚に危害が及ぶと思っていたから」と語っている。
関連書籍も参照。
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