ヘルマン・ブロッホ(Hermann Broch, 1886年11月1日 - 1951年5月30日)は、オーストリアの作家。ウィーンの富裕なユダヤ系の家庭に生まれた。
ヘルマン・ブロッホ Hermann Broch | |
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1909年撮影 | |
誕生 | 1886年11月1日 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン |
死没 | 1951年5月30日(64歳没) アメリカ合衆国 コネチカット州ニューヘイブン |
墓地 | コネチカット州キリングワース |
職業 | 小説家、随筆家、評論家 |
言語 | ドイツ語 |
国籍 | オーストリア |
最終学歴 | ウィーン大学 |
活動期間 | 1931年 - 1951年 |
ジャンル | 小説、随筆、評論 |
主題 | 大衆の行動、伝統様式の崩壊、個人主義 |
文学活動 | モダニズム |
代表作 | 『ウェルギリウスの死』(1945年) |
デビュー作 | 『夢遊の人々』(1931年) |
配偶者 | フランツィスカ・フォン・ロザーマン (1909年 - 1923年) |
影響を与えたもの | |
ウィキポータル 文学 |
長く織物工業に携わり、のちに作家となった。ロベルト・ムージルとならんでオーストリア=ハンガリー帝国の生んだ二大巨匠との評価がある。1938年、ナチスの迫害を避けるため、アメリカに亡命し東部に在住、大作『ウェルギリウスの死』はアメリカで出版された。
父親の経営する紡績工場で働く一方、ウィーン大学で哲学・心理学・物理学を学ぶ。この時期、ショーペンハウアーらの影響を受ける。のちに、家族の反対を押し切って工場を売却し、再び、ウィーン大学の聴講生として数学、哲学、心理学を学ぶ。
実務にも取り組むかたわらで若くから文学や哲学への関心を示し、雑誌に芸術評論や哲学的エッセイを発表し続けた。ジョイス『ユリシーズ』の独訳本を読んで大いに影響を受けるとともに、古今の文学に親しみ、1930年代に入って第一作『夢遊の人々』を発表し高く評価される。しかし反ユダヤ主義の高まりのなか、1938年に逮捕拘禁された。解放後、一時イギリスに亡命したのち、トーマス・マンらの協力でアメリカに渡る。1945年、この間も書きつづけてきた『ウェルギリウスの死』の英語版と独語版が出版された。『ウェルギリウスの死』は、ブルンデシウムに到着した古代ローマの詩人ウェルギリウスが推敲中の『アエネーイス』を抱えたまま、死ぬまでの18時間を錯綜した想念と独特の筆致によって描き出した物語の大作である。
「美的にではなく倫理的に仕事をすること」を終生の課題とし、小説執筆にあたっての指針としていた。また文学活動のほかに『群衆の心理』をはじめとした数々の評論を手がけており、『夢遊の人々』をはじめとする小説にも時代や社会などについての数々の考察を織り込んでいる。
長篇評論『ホフマンスタールとその時代』では、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールの活躍した多民族都市ウィーンのもつコスモポリタン性や文化の多層性とともに、ハプスブルク君主国の末期における時代状況を、あらゆる価値や尺度が相対化される「価値の真空」と名づけて論じている。
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