ピンク・レディー(Pink Lady)は日本の女性デュオ。1970年代後半、斬新な振付と衣装を伴ったユニークなヒット曲の数々で、アイドルとして爆発的なブームを巻き起こした。
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ピンク・レディー | |
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出身地 | 日本・静岡県静岡市葵区 |
ジャンル | |
活動期間 | |
レーベル | |
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メンバー |
メンバーは、ミー(根本美鶴代、現・未唯mie)とケイ(増田啓子、現・増田惠子)。当時の所属事務所はT&C、レコード会社はビクター音楽産業(現:ビクターエンタテインメント)
名前 | 本名(デビュー時) | 生年月日 | 出身地 | 現芸名 |
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ミー | 根本美鶴代 | 1958年3月9日 | 静岡県静岡市葵区 | 未唯mie |
ケイ | 増田啓子 | 1957年9月2日 | 静岡県静岡市葵区 | 増田恵子 |
中学2年時(1971年)に、ミーの在学する静岡市立末広中学校にケイが転校して来て演劇部に入り2人が知り合う。
1973年に、ヤマハ音楽が主催するオーディションにそれぞれ合格する。授業料免除の特待生にも合格したことから、ヤマハボーカルスクールに通うことになる。講師の勧めで、当時人気のあった「キャンディーズ」にあやかった『クッキー』というフォークソング系のデュオを結成し、プロデビューを目指すことになった。1974年のヤマハ主催のポプコン東海地区大会決勝に進出して、「恋のレッスン」を歌っている。
ヤマハ所属のセミプロ歌手として同社の新商品発売イベントやキャンペーン開催時に参加し、歌を披露することもあった。
プロをめざし、ヤマハの全国オーディションに出場しグランプリを獲得するものの、デビューの話は具体化しなかった。次にオーディション番組『君こそスターだ!』に出場するが不合格。最後の挑戦と意気込み応募したのが『スター誕生!』である。第224回(1976年1月11日放送)合格者となり、決勝大会へ進む。
1976年3月14日、『スター誕生!』第16回決勝大会に出演。白いシャツにサロペット(ミーは赤、ケイは紺青)を着用、化粧もほぼ施さず、垢抜けない雰囲気を演出して登場。当時ほとんど無名に近かったフォークグループ、ピーマンの「部屋を出て下さい」を披露。合計8社のレコード会社や芸能プロダクションから獲得の意向を示すプラカードが上がった。熱心だったのは、アクト・ワン・エンタープライズ(同年4月にT&Cに吸収される)の相馬一比古とビクター音楽産業の飯田久彦。2人は両社に所属することになる。
クッキーと契約を交わしたレコード会社・ビクター音楽産業でディレクターを務めていた飯田久彦は、ミーとケイをフォークデュオで売り出そうとする上層部に異議を唱えた。ディスコミュージックブームの波が押し寄せ、フォークの時代に陰りが見え始めており、洋楽の要素を含んだ楽曲の時代を予見していた。何よりも、ミーとケイの溌溂とした若さと魅力的なルックスは武器になり、リズムやビートの効いた楽曲を歌わせることで新たな魅力が引き出せると確信していた。上層部に粘り強く交渉して方針変更の許可を得てプロデュースに本腰を入れる。
『スター誕生!』出演時の時のような、化粧ひとつしない素朴なイメージを封印。大胆に肌を素出させたボディラインにフィットするデザイン(マイクロミニ丈のミニスカートやホットパンツ、キャミソールドレス、ワンショルダーやチューブトップなど。デザイナーは野口庸子)の衣装に身を包み、セクシーでありながら爽やかな可愛らしさを前面に打ち出した。
活動名も、大人っぽく都会的なイメージに変更。作曲家・都倉俊一が、カクテルのピンク・レディーに因んで『ピンク・レディー』と命名した。『ピンク・レディーズ』(複数形)としなかったのはこのためである。
デビュー曲選考にあたり、「乾杯!お嬢さん」「ペッパー警部」の2曲が挙がり、前者が有力視されていた。しかし、楽曲提供した阿久悠と都倉がインパクトのある「ペッパー警部」を推し、デビューシングル(A面)に決定した。
1976年8月25日、レコード・デビュー。『スター誕生!』決勝大会から半年足らずでのスピードデビューである。
デビュー直後はキワモノ的な見方もされ、ミニスカートから伸びた太ももをがに股に開け閉めする振付を行うことから成人向け深夜番組の出演が多かった。しかし、リリースされる楽曲が次々とヒットチャートを駆け上がり、人気音楽番組に出始めるようになると、当時の子供たちがこぞって振付を覚えて真似をし始めた(振付師・土居甫が担当)。
人気が高まるにつれ、衣料品や文房具、食器、自転車や食品まで多くの業種のさまざまな商品に2人の姿がプリントされたキャラクターグッズが販売された。また、ミーとケイをネコに模したマスコットキャラクターも考案され、こちらもグッズ化された。
このように、ピンク・レディーの人気絶頂期は、1976年から1978年までの3年間、実質的にはブレイク後の1977年から1978年の2年間にわたって続いた。絶頂期のピンク・レディー人気を支えていたのは主に子供たちであり、1978年のオリコンの調査によると、ピンク・レディーの支持層は3歳から12歳が42.5%を占めていた。
オリコンでの連続9曲1位・10曲連続ミリオンセラー(出荷ベース)は、当時の新記録。オリコンシングルチャートにおける通算首位獲得数(63週)は、2015年1月26日付に、B'zが「有頂天」で記録更新するまで最高記録であった(ピンク・レディーは9曲で通算63週を達成。B'zは47曲で通算64週を達成。また1977年7月第3週から1978年2月第3週までの28週のうち27週にわたり、ピンク・レディーが1位を獲得していた)。
また、女性グループアーティストによる通算9曲首位も、2006年11月20日付に、モーニング娘。が「歩いてる」で記録更新するまで最高記録であった。3年ほど早くデビュー(1973年9月)していた、アイドルトリオのキャンディーズと比較されることが多かったが、当時のレコード売上枚数はピンク・レディーが圧倒的に上回っていた。
ピンク・レディーの2人の初任給は5万円であったが、1980年ごろには月給350万円になったという。所属事務所「T&C」の社長だった貫泰夫は「20歳の娘に350万円の月給を出し、5000万円のマンションを買い与えた」と語っている。しかし、実際には本人たちの給与からマンションの「家賃」が月々天引きされていた。事務所を信頼して預金通帳を預けていたため、解散の頃まで気がつかなかったという。
「カメレオン・アーミー」(1978年12月)もオリコン1位を獲得、これで1976年の「S・O・S」からオリコンシングルチャート連続首位記録が9曲となった。
そんな中、1978年大晦日の『第29回NHK紅白歌合戦』への出場を敢えて辞退、日本テレビ系のチャリティー番組『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』に出演する。しかし視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)は当時の国民的番組であった『紅白』の72.2%に対し、ピンク・レディーが出演した裏番組は8.2%と惨敗する結果となった。それでも前年度の『コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!なんてことするの!?』の6.2%を上回り善戦したともされる。
ニューミュージック全盛期を迎える翌1979年、「ジパング」(1979年3月)はオリコン4位に留まり、連続首位記録がついにストップする。その後「ピンク・タイフーン」(1979年5月)と、「波乗りパイレーツ」(1979年7月)まではオリコンベスト10内を維持した。
この頃には子どものファンも意識したエンターテインメント路線が飽きられつつあった。前代未聞の紅白歌合戦出場辞退によりマスコミから激しいバッシングを受けた上に、事務所のトラブルやメンバーの恋愛報道なども相まって逆風に晒された。1980年4月には前年から芸能活動を開始していた松田聖子が満を持して歌手デビュー。また、男性であるがたのきんトリオブーム到来と続々新しいアイドルが台頭。世代交代が進む中、以前ほどヒットに恵まれなくなる。
ただし、以前から進められていたアメリカでの活動は順調で、全米デビューシングルとなった「Kiss In The Dark」がビルボード総合37位、全米三大ネットワークの一つNBCのゴールデンタイムで、自らの名前を冠する番組を持つなど確実に実績を積んでいた。しかし、アメリカでの契約を更新することが無いまま帰国することとなり、再び日本での活動に力を入れたものの、往時の勢いを取り戻すことは全くできなかった。
こうした経緯から、アメリカ進出について日本では失敗と言われることが多かった。冠番組の放送内容に賛否は分かれているが、米国内ではDVD化もされている。
1980年9月1日、ピンク・レディーは解散を発表。7か月後の1981年3月31日、後楽園球場で解散コンサートを開催する。しかし、そのコンサート当日はみぞれ交じりの冷雨が降り続く悪天候であり、空席が目立ったスタンドに象徴されるように絶頂期の面影はほとんど無く、何かと比較されたキャンディーズの解散コンサート(1978年4月)が超満員だったことと比べると、あまりにも寂し過ぎるものであった。感涙し抱擁する瞬間までテレビサイズに収めるためにディレクターから急かされたとされている。解散コンサートの観客動員数は主催者発表で3万人、消防署関係者の証言では1万5000人程度とされる。
活動期間は4年7ヶ月。なお当時の所属事務所は解散直後に倒産し、社長であった貫泰夫も芸能界を離れた。ピンク・レディーが稼ぎ出したのは500億円とも言われているが、実際に所属事務所に入ったお金は50億円ほどであり、そのお金も「制作費などの諸費用により出費して全て消え、口座が維持できなくなってパンクしてやめた」と言う。
解散後の2人には、「女優やアーティストにならないか?」という誘いが殺到したという。しかしミーは、「これまで通り、ピンク・レディーをプロデュースしてくださった方のお世話になりなさい」と親が移籍に反対したことから断念している。数年ほど活動を続け、解散前と変わらぬ多忙さだったが、不完全燃焼のような気持ちは拭えず、袂を分かつことを決意。
1987年、ミーは同世代のミュージシャン仲間から誘われ29歳で独立。その仲間たちと新会社を設立するが、経営に興味がなく他人任せで、大きな利益はあったものの一方で過剰に出費をしていたため、経営に失敗して億単位の借金を抱える。33歳になり、借金だらけの会社を自分の手で経営を立て直すことを決意。ピンク・レディー全盛期並みの睡眠時間で働き続けて、3年後にようやく借金返済の目途がたったという。
解散後はそれぞれ女優やタレントとしてソロ活動。ピンク・レディーとしては、2005年までは期間限定ながら数度、再結成して活動。二人でテレビ出演する際の衣装は、ケイがピンク、未唯はブルーで登場することが多い。これは、現役の頃から今までもケイがピンクが大好きだということの表れである。
それ以外にも、1993年にはポッカコーポレーション(現:ポッカサッポロフード&ビバレッジ)「つぶコーンスープ」のCMソングをレコーディングするために、一時的に再結成したことがある。
2010年、解散宣言からちょうど30年後の9月1日に「解散やめ!」を宣言、ピンク・レディーとしての活動を再開しソロ活動と並行して継続することを表明。2011年5月から本格的な再始動として全国ツアー「ピンク・レディー Concert Tour 2011 "INNOVATION"」を開催。
2017年12月30日、TBSの『第59回日本レコード大賞』に39年ぶりに特別ゲストとして出演した。これはピンク・レディーの歌詞を担当した作詞家、阿久悠が特別賞を受賞したことを祝したものである。披露した曲は「ペッパー警部」「ウォンテッド(指名手配)」「UFO」の3曲ノンストップメドレーを歌った。翌2018年12月30日の第60回日本レコード大賞にも、「UFO」での1978年レコ大受賞当時の司会者・高橋圭三への追悼で再びステージに立った。2017年よりも1曲多い「UFO」「S・O・S」「渚のシンドバッド」「サウスポー」の4曲ノンストップメドレーを歌った。
後に増田恵子(ケイ)は、素朴な田舎娘っぽいイメージはオーディション番組に受かるための手段で、当初より歌って踊れる歌手を目指していたと語っている。当初のユニット名の候補には「みかん箱」「ちゃっきり娘」があり、最終的には「白い風船」に決まったということで、これに増田はフォークソンググループの名前みたいで「終わった~、でもデビューさせてもらえるだけでもありがたいよね」と思ったという。しかし都倉俊一は「白い風船じゃないなぁ」として名前を変えたく思い、赤坂プリンスホテルのバーで飲んでいる時に、前述のように「カクテルのピンク・レディー」を発想して、これにしようと命名に至ったとのこと。
二人は最初『スター誕生!』でスカウトされた相馬一比古が代表を務める「アクト・ワン」というプロダクションに所属していたが、同社は借金の肩代わりに1976年4月に設立された「T&C」に吸収合併された(相馬はT&Cの制作部長に就く)。「T&C」の社長・貫泰夫、専務・加納亨一はそれぞれ証券、生命保険の大手企業出身の堅気で、一攫千金を夢見て脱サラした人物だったのだが先の借金の融資を広島で原爆の焼け野原で一緒にボールを追った野球部仲間だった総会屋小川薫に頼み、小川が同社のオーナーとなったのがまずかった。ピンク・レディーが爆発的に売れるに連れ、警察から格好の標的にされ、小川が余罪で追及されたり、スーパーアイドルと総会屋との接点が当時のマスメディアに散々書かれた。しかしT&C自体はまともな会社で、むしろ既存の芸能界とは全く関係のないズブの素人が始めたT&Cの一時の大成功は、その後素人による芸能プロ参入を増やしたという功績がある。
アイドル歌手では一般的なことだが、活動方針やイメージ戦略などはピンク・レディー本人(ミーとケイ)が立案しているのではなく、所属事務所など周囲の関係者が行っていた。多忙がたたり、当時の仕事の現場はダブルブッキングなどは日常茶飯事な状態であった。ミーとケイは、デビュー当時から寝る間もないほどの仕事を課せられていたため、自分たちが実際にどれくらい人気なのか全く分からなかったと後述している。
当時の子供向けテレビ雑誌「テレビマガジン」(講談社)、「テレビランド」(徳間書店)、「てれびくん」(小学館)誌上における短期グラビア連載を展開した他、女児の間ではピンク・レディーの振り付けの真似が大流行した。『探偵!ナイトスクープ』2001年2月9日放送分の「30代の女性は皆ピンク・レディーの振り付けを踊れる?」の調査でも、街頭インタビューを行った一般の女性達が次々と完璧に「UFO」「サウスポー」などを踊りこなし、当時の人気振りを偲ばせた。当時フィーバーやアパッチ、キャッツ★アイなど、ピンク・レディー人気にあやかろうと亜流といえる歌謡グループが複数登場したのも人気を物語るエピソードである。
絶頂期当時、ピンク・レディーのブロマイドの販売数も驚異的なものであったが、山口百恵や他のアイドル達の写真がスタジオなどできちんとした撮影がされているのに比べてピンク・レディーの写真はその多くがテレビ局の廊下や階段などで撮影されたものが使用されている。これは写真スタジオで撮影するだけの時間が全くなかったほど多忙であり、番組出演の移動の合間に手っ取り早く撮影していたことが理由であったと本人達が後に語っている。
アメリカ進出の経緯については一般に知られていないが、多くのファンを得て、米3大ネットワークのNBCで主演の冠番組を獲得するなど、当時の外国人デュオとしては成功を収めた。しかしながら、よりセックスアピールを前面に出したスタイルであったため、国内でのイメージを損なう恐れがあるとの判断から日本ではほとんど報道されなかった。アメリカのマーケットにおける長期的な見通しの欠如と、国内マーケット重視の営業判断から、活動途中でアメリカから撤退を余儀なくされた。また当時、主に私生活上(特に恋愛関係)の要因からケイが日本への帰国を強く主張していたことを、後にケイ自身が著書で明らかにしており、それもアメリカ撤退の一因となった。
テレビプロデューサーでコメンテーターでもあるデーブ・スペクターは、「ピンク・レディーは名前が悪すぎた。アメリカでピンク・レディーという名前では売れるはずがないんですよ。」と語っている。これは、アメリカにおける「ピンク・レディー」という言葉には、カクテルの名前の他に“共産主義者っぽい女性”、“バルビツール酸系催眠鎮静剤”、“売春婦”といった意味があるためである。
光文社『女性自身』2007年2月27日号に掲載された「ピンク・レディーdeダイエット」の写真について、無断で掲載されたパブリシティ権侵害の損害賠償を求めて提訴したものの、最高裁判所で訴えが棄却され、主張した損害賠償請求は認められなかった(ピンク・レディー事件、最高裁判所 平成21(受)2056 民集第66巻2号89頁)。
日本で烏龍茶が浸透したのは、「夜のヒットスタジオ」(1979.09.10放送)で『マンデー・モナリザ・クラブ』を歌った際のインタビューがきっかけだったとする説もある。
1970年代の年少者向け雑誌では、ピンク・レディーの「パラパラ写真」が付録となっていた。このパラパラ写真はピンク・レディーの振付をコマ撮りしたものであり、雑誌から切り取ってすべてをバラし、片端をクリップなどで留めてもう一方の端をはじくことで動作を再現できた。
1990年、ポリドールより「2年目のジンクス/ポロロッカ」がシングル発売される予定だったが、未唯とケイの契約上の問題など諸事情から見送られた。「2年目のジンクス」はNHKのテレビ番組出演時に披露され、同年末の第41回NHK紅白歌合戦においても、「ピンク・レディー・メドレー」の中で歌われた。
この2曲は1993年に、ビクターから発売されたベスト・アルバム『BEST ONE』に収録された。
年度 | 放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 |
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1977年 | 第28回 | 初 | ウォンテッド (指名手配) | 02/24 | 狩人 |
1989年 | 第40回 | 2 | ヒット・メドレー | 第1部に出演 | (対戦相手なし) |
1990年 | 第41回 | 3 | ピンク・レディー・メドレー | 11/29 | たま |
2000年 | 第51回 | 4 | スペシャルメドレー ピンクレディー2000 | 21/28 | アリス |
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