ツール・ド・フランスまたは(ル・)トゥール・ド・フランス(フランス語: Le Tour de France、以下「ツール」)は、毎年7月にフランスおよび周辺国を舞台にして行われる自転車ロードレース。1903年に始まり、主催は、傘下にスポーツ新聞『レキップ』や一般紙『ル・パリジャン』などを抱えるフランスの大企業アモリ・スポル・オルガニザシオン(ASO, Amaury Sport Organisation)。
概要 | |
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開催時期 | 7月上旬~7月下旬(23日間) |
開催地域 | フランス及び周辺諸国 |
英語名 | Tour de France |
地域名 | Le Tour de France (フランス語) |
愛称 | ツール(ル・トゥール) |
分野 | ロードレース |
カテゴリー | UCIワールドツアー / グランツール |
形態 | ステージレース |
主催者 | アモリ・スポル・オルガニザシオン(ASO) |
責任者 | クリスティアン・プリュドム |
歴史 | |
初回開催年 | 1903年 |
開催回数 | 110回(2023年) |
初代優勝者 | モリス・ガラン |
最多優勝者 | ジャック・アンクティル エディ・メルクス ベルナール・イノー ミゲル・インドゥライン(5回) |
直近優勝者 | ヨナス・ヴィンゲゴー(2023年) |
名称はフランス語で「フランス一周」を意味する。フランス語による同様の名称のレースには、スイスで行われるツール・ド・スイスなどがある。単にル・ツール(Le Tour:ル・トゥール)と呼ばれることもある。ジロ・デ・イタリアやスペインで開催されるブエルタ・ア・エスパーニャと並ぶ世界三大自転車レース(グランツール)の一つであり、FIFAワールドカップやオリンピックと並ぶ世界三大スポーツイベントの一つと称される。
「近代ツール」と区別される場合は1930年大会以降の大会を示す。この大会から個人参加が認められなくなった。
毎年7月に23日間の日程で行われるステージレースで、距離にして3300km前後、高低差2000m以上という起伏に富んだコースを走り抜く。フランス国内でのレースが中心だがイギリス、イタリア、スペイン、ベルギー、モナコなど周辺国が舞台になるステージもある。ステージ数は1993年以降「プロローグ」を含めて全21ステージが定着しているが、それ以前はもっと多いステージ数で争われることもあった。平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ(個人、チーム)と多彩なステージ設定がされているが、山岳の比重が大きくなることの多いジロ・デ・イタリアやブエルタ・ア・エスパーニャに比べて平地ステージと山岳ステージのバランスがとれた構成となっている。
スポンサーの名を冠した8人編成(最低6人。2017年大会までは9人編成)のチームが、20~22チーム参加する。出場する選手の国籍はヨーロッパだけに限らず、アメリカやオーストラリア、カザフスタン、コロンビアなど多様である。
総合成績1位の選手には黄色のジャージ「マイヨ・ジョーヌ」が与えられるほかスプリント賞、山岳賞、新人賞といった各賞の対象者も特別なジャージを着用する。
賞金総額は2015年の場合で約203万ユーロ、うち総合優勝者に45万ユーロとなっているほか、各ステージ優勝やスプリント賞・山岳賞などに細かく賞金が設定されている。
例年、前半は平坦基調のステージが続き、スピードマンたちの逃げやスプリンターたちによる迫力あるゴールスプリントが見られる。そして中盤に一度山岳を通過し優勝候補が絞り込まれ、その後はまた平坦ステージが続き、今度はポイント賞争いが絞り込まれる。後半にかけてはラルプ・デュエズ、ガリビエ、モン・ヴァントゥなどの峠を舞台にした山岳ステージで総合優勝や山岳賞をかけたオールラウンダーやクライマーたちの戦いが繰り広げられる。
2度の山岳コースはそれぞれ3日ほど繰り広げられ、それぞれピレネー山脈とアルプス山脈を使うことが多いため、「ピレネーラウンド」「アルプスラウンド」と呼ばれる。間の平坦基調ステージは主にこの二つの山脈の間を移動するために設定されているが、この緩急をつけたレイアウトと平坦ステージの多さ、ポイント賞のシステム(後述)などもあり、スプリンターが一番ポイント賞を獲得しやすいグランツールとなっている。
かつては各ステージのゴールと次のステージのスタートが同じ町だったが、スタート・ゴール地点を希望する市町村が多いため現在は一致しないことが多い。
他のグランツールではしばしば最終ステージが個人タイムトライアルとなることがあるが、ツール・ド・フランスにおいては稀である。最終日前日の第20ステージ(プロローグが設定される場合は第19ステージ)で総合優勝争いには決着がつき、最終ステージはパリ市街を中心に回るクリテリウム形式のコース設定がされ、シャンゼリゼゴールに設定されるのが恒例である。最終日は選手たちがシャンパンを片手に走る光景もよく見られるなど顔見せの凱旋パレードの色合いが強く、ポイント賞を争うスプリンターやステージ優勝を狙う選手以外は安全を優先して走る。総合優勝を争う選手は集団落車に巻き込まれないようアシスト選手で周囲を固めゴールスプリントが済んだ後にゴールに入るため、実質的な総合優勝争いは最終日の前日までとなる。もっとも、過去に最終日に個人タイムトライアルに設定されたケースもあり、総合首位が逆転するケースがしばしば起こっている。1968年、前ステージまで16秒差の総合3位につけていたヤン・ヤンセンがヘルマン・ファンスプリンヘルを、また1989年、同じくローラン・フィニョンに50秒の差をつけられていたグレッグ・レモンが大逆転したケースがある。しかし1989年のケースにおいて、フィニョンの負け方があまりにも悲劇的だったことから、最終ステージを個人タイムトライアルとすることに対し、とりわけ同胞であるフランス人から批判が殺到した。この影響を受け1990年以降、最終ステージにおける個人タイムトライアルは2023年まで行われない。2024年大会で35年ぶりに実施される予定である。
スポーツ新聞社・ロト(L'Auto、現在のレキップ紙)の宣伝のために当時の編集長アンリ・デグランジュが自動車による「ツール・ド・フランス」をヒントに企画したのが始まりで自転車レースを企画するライバル2紙、ル・プティ・ジュルナル(Le Petit Journal)によるパリ・ブレスト・パリ(現在はアマチュアが参加するブルベというイベントに変わっている)、並びにヴェロ紙(Le Velo)がスポンサーとなるボルドー〜パリ間レースに対抗するためのものであった。
1903年に行われた第1回は、パリ郊外モンジュロン(Montgeron)のカフェ「ルヴェイユ・マタン (Au Reveil Matin)」前からヴィル=ダヴレーまで、合計走行距離2428km・6ステージで行われ、1ステージ平均400kmを走るという過酷なレースであった。初期のレースではほとんど休みがない耐久戦であり、眠る際にもライダーは道路脇で眠っていたという。一方で休息日が第1回は1日おき(1ステージ走ったら1日休み)、その後も3~4日ごとに設けられるなど休息日の数は現在よりも多かった。ゴール先の宿泊先も自分で手配し、いかなる場合でも(自転車の故障による修理なども含む)他者の協力を得ることは禁止されていたため、選手は修理用の工具や交換用のタイヤを身につけて走っていた。
第3回からは距離を縮めた分、ステージ数が倍増。さらに山岳ステージが導入された。ただ当時は変速機が無く、登山用の低速ギアが後輪の反対側(ダブルコグ)に取り付けられていた。しかし、上り坂に来るたびに選手は後輪を前後反対に付け直さねばならなかったためレースは相変わらず過酷なものだった。間もなく変速機が開発されるが、デグランジュはこれを禁止した(デグランジュは「変速機は女子供が使うもの」との考えを持っていたといわれる)。
初期はルールが一定せず、第3~10回は総合優勝がポイント順位制(各ステージ首位の選手とのタイム差をポイントに換算し、点数の最も少ない選手が優勝)とされていた。また第9回からチームによる参加が認められたが、引き続き個人としての参加も可能となっていた(1936年まで)。
以後も徐々にステージ数は増えそれに伴いレースは大規模化していくが、第一次世界大戦によって1915年から1918年までは中断。1919年から再開されたがこの頃は再び走行距離も伸び1ステージ平均350kmを走るのが当たり前で、総距離は5000kmを超える傾向が1930年代まで続いた。
1930年からは商業スポンサーによるチーム(いわゆる「トレードチーム」)の参加を禁止し、チームは全て同一国籍の選手によるナショナルチームでの参加を義務付けることとなった。しかしチーム数が不足したため、ナショナルチーム以外にも地域選抜チームの参加も認められた。チームから商業スポンサーを排除した結果、主催者は選手への機材の供給を一手に引き受けなければならなくなった。主催者は運営費用を調達するため、レースの前に宣伝カーを走らせてそのスポンサー料を運営費用に充てることを思いつく。この結果、現在のツールでも見られる「キャラバン隊」がこの年に誕生した。
1930年代以降はステージ数20前後、走行距離は4500km程度の規模になり、ほぼ現在の開催スタイルとなる。1937年にデグランジュが代表の座を退くとツールでは変速機の使用が認められるようになったほか、個人参加が禁止されチームカーが導入されるなど「チームによる戦い」としてのツールが確立される。総合優勝以外の各賞が制定されたのもこの頃で、チーム賞は1930年、山岳賞は1933年(ただしジャージ制定は1975年)、ポイント賞は1953年に制定されている。
しかし第二次世界大戦によって1940年から1946年まで再び中断を余儀なくされた。この戦争を挟んだ時代に参加した選手の中にイタリアのファウスト・コッピ、ジーノ・バルタリがいる。この時代からツールはチームを編成した集団競技へと移行し、チーム編成の規定も試行錯誤が続けられた。1947年から再開され、以後1950年代にルイゾン・ボベが3連覇を達成した。
1960年代に入ると自転車レース人気の高まりからスポンサーが増え、ナショナルチーム制を取る当時のツールに対する不満が高まってきた。これに加えフランスのナショナルチーム内においてジャック・アンクティルとレイモン・プリドールが対立し、ナショナルチームとして両者を同じレースに出場させることができない状態となった。当時のフランス自転車界の二大スター選手の片方を欠くことはレースの盛り上がりをそぐことになるため、主催者はこの問題を回避すべく1962年からトレードチームによるエントリーを認めることとなった。その後、1967年と1968年には一時的にナショナルチーム制が復活するものの、現在に至るトレードチームによる戦いがここにスタートした。
1960年代にはアンクティル、1970年代前半にエディ・メルクスが4連覇を達成。1973年には独立した運営企業として「ソシエテ・デュ・ツール・ド・フランス(Société du Tour de France)」が設立された(同社は1993年にASO傘下となる)。1975年には今や恒例となっているシャンゼリゼ通り周回コースによる最終ステージがスタートした。1970年代後半からはベルナール・イノーやローラン・フィニョンらフランス人が活躍。1980年代後半は後半はヨーロッパ出身以外の選手の台頭も目立つようになり、アメリカ人のグレッグ・レモンが活躍した。
1990年代前半にはミゲル・インドゥラインが史上初の5連覇を達成。2000年代にはランス・アームストロングが7連覇を達成したが、2012年にドーピングによるものであるとして剥奪された。
他に3週間程度にわたり行われる大規模なステージレースとしてはジロ・デ・イタリア(イタリア一周)とブエルタ・ア・エスパーニャ(スペイン一周)があり、これにツール・ド・フランスを加えて俗にグランツール(三大ツール)と呼ばれる。その中でもツール・ド・フランスの知名度・露出度は突出しており、日本でも「世界最大の自転車レース」として認識されている。
世界各地で開かれる他の自転車レースには興味がなくてもツール・ド・フランスだけは高い関心を持つファンも多数存在しており、開催規模や放映される国の多さ、参加する選手の国籍の多彩さなどから見ても世界屈指のスポーツ競技大会である。2010年時点、186の国と地域でテレビ放送され、うち60か国は生中継を実施している。
そのため総合優勝をはじめとした各賞のステータスが非常に高いことはもとより、各ステージの優勝もクラシックなどワンデイレースのビッグレースでの優勝に匹敵する価値があるともいわれ、1回のステージ優勝であっても生涯の勲章になる。さらに超級山岳ポイントの峠を1位で通過することも名誉なことであり、次回以降通過する際、歴代の峠の制覇者としてオフィシャルガイドに名前が掲載される。それゆえプロロードレース選手にとっては一度は出場してみたい大会の筆頭である。
レースが非常に大規模、かつメディア露出度が高いために専門の本部が置かれ、およそ500人のスタッフが運営に関わる。交通規制やレース中の警備、極端な不正行為の取締りはジャンダルマリ(フランス国家憲兵隊)とポリスナシオナル(フランス国家警察)の2系統の警察が担当しており、これに動員される人数が約2万5000人。さらにボランティアで警備などを担当する人は数十万人にのぼると推察されている。
またレース中は情報や補給食・飲料水を供給したり、機材のトラブルをサポートするメカニックが乗り込んだ「サービスカー」と呼ばれる車やオートバイが、選手と共におよそ1500台走る。このサービスカーはチーム専属の車両のほか、中立の立場で水や機材を提供するニュートラルカー(ツールでは主にマヴィックが提供するため「マヴィックカー」として知られる)も参加している。
このほかにも選手が通過するおよそ1~2時間前に各スポンサーが出す山車のような宣伝カーが連なったキャラバン隊が沿道の観客に菓子、応援グッズ、キーホルダーなどのグッズをばら撒いていく。配られる数は1000万を超え車の台数はおよそ200台にもなり、全て見るのに40分以上かかるほどである。2000年と2002年にはこのキャラバンカーに観客の子どもがはねられ死亡する事件が起きている。
キャラバン隊は現地にいる観客へのPRだけなく山岳地帯などレースのスピードが落ちる区間でチームジャージと同じ吸湿性に優れた素材で出来たTシャツを配布し、沿道に即席の応援団を作り出すことでスポンサーのロゴが中継で長く映るようにする(2008年のケス・デパーニュ)など巧妙な宣伝を行っている。近年ではキャラバン隊は選手の通過後にも登場する(2008年以降のヴィッテルなどが代表例)。
運営費は主にテレビ放映権とスポンサー収入で賄われるほか、レースの舞台となる市町村から主催者に支払われる開催料も充てられているもようだが、正確な収入および運営費用は非公開となっている。
数種の賞が設定されており、各賞に応じた色別のジャージ(リーダージャージ)、または特別なゼッケンがある。前日のステージ終了時点で各賞の成績第1位の選手およびチームは、翌ステージでそのジャージまたはゼッケンを着用しなければならない。2012年以降、リーダージャージはルコックによる提供。なお表彰式で着用するリーダージャージは背中にファスナーのある表彰式専用のもので、翌ステージで着用するジャージは改めて対象選手(「繰り下げルール」適用の場合は繰り下げの着用対象選手)に渡される。
黄色のジャージ「マイヨ・ジョーヌ (maillot jaune)」は個人総合成績1位の選手に与えられる。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手が「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利を得る。最終ステージの終了時点で「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利をもっている選手がツールの総合優勝者となる。
緑色のジャージ「マイヨ・ヴェール (maillot vert)」は「ポイント賞」に対して与えられる。各ステージのゴール、およびステージ途中の中間スプリント地点の通過順位に応じてスプリントポイントが加算され、スプリントポイント1位の選手が「マイヨ・ヴェール」着用の権利を得る。
白地に赤い水玉ジャージ「マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ (maillot blanc à pois rouges)」は「山岳賞」に対して与えられる。山岳ポイント地点の通過順位に応じて山岳ポイントが加算され、山岳ポイント1位の選手が「マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ」着用の権利を得る。1975年に初登場。略して「マイヨ・ア・ポワ」あるいは「マイヨ・グランペール」とも呼ばれる。
白色のジャージ「マイヨ・ブラン (maillot blanc)」は開催年に25歳以下の誕生日を迎える選手の中で総合成績が最も上位の選手に与えられる(大会期間中に25歳であっても開催年中に26歳になる選手は対象外)。「新人賞」と訳されることが多いが、該当の年齢であれば複数回受賞できるため正確には「最優秀若手選手賞」と呼ぶのがふさわしい。色の由来は不明。
タイムトライアルと最終ステージを除く各ステージで特に果敢に動いたと認められた選手には「敢闘賞」として、通常白地に黒文字のゼッケンの代わりに赤地に白抜き数字のゼッケンが与えられる(ただし2004年はスポンサーの関係から青地に白数字のものが使われていた)。「敢闘賞」は他の賞と異なり審査員の主観によって選ばれる賞で、各ステージ終了直前に受賞選手1人が主催者から発表され、表彰が行われる。審査員の中には逃げ屋でおなじみとなっていたジャッキー・デュランも含まれていることもあり、逃げ集団が吸収された際は最後まで逃げていた選手、逃げ集団が逃げ切りでゴールした際は2位の選手、単独逃げ切りに成功した場合はその選手が敢闘賞となる確率が高い。2009年の最終ステージ(シャンゼリゼ通り)では、別府史之が日本人初の敢闘賞を獲得した。2010年以降、最終ステージについてはステージ敢闘賞の対象外となっている。また最終日には大会全体で最も果敢な走りをしたと認められた選手1人に「スーパー敢闘賞」(「総合敢闘賞」とも)が贈られる。
各ステージの終了後、チームごとに先頭から3人の所要時間の合計が加算され(各チームの総合時間成績の上位3人ではないことに注意)、最も少ない時間のチームが表彰される。リタイアなどによりチームが3人未満になったチームは順位から除外となる。2006年からは黄色地に黒文字のゼッケンがチーム総合首位の選手全員に与えられている。チーム総合1位のチームに敢闘賞ゼッケン対象者がいる場合は、敢闘賞ゼッケンを優先する。
その年の最大標高の山岳をトップで通過した選手にアンリ・デグランジュ記念賞が与えられる。特にジャージやゼッケンなどは設定されていないが、数千ユーロの賞金が授与される。ジロ・デ・イタリアにおけるチマ・コッピと同じもの。
通過順位 | 1 位 | 2 位 | 3 位 | 4 位 | 5 位 | 6 位 | 7 位 | 8 位 | 9 位 | 10 位 | 11 位 | 12 位 | 13 位 | 14 位 | 15 位 | 16 位 | 17 位 | 18 位 | 19 位 | 20 位 | 21 位 | 22 位 | 23 位 | 24 位 | 25 位 |
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平坦ステージ | 35 | 30 | 26 | 24 | 22 | 20 | 19 | 18 | 17 | 16 | 15 | 14 | 13 | 12 | 11 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 |
中位山岳 | 25 | 22 | 20 | 18 | 16 | 15 | 14 | 13 | 12 | 11 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | |||||
上級山岳 | 20 | 17 | 15 | 13 | 12 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | ||||||||||
プロローグ&TT | 15 | 12 | 10 | 8 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | |||||||||||||||
中間スプリントポイント | 6 | 4 | 2 |
通過順位 | 1 位 | 2 位 | 3 位 | 4 位 | 5 位 | 6 位 | 7 位 | 8 位 | 9 位 | 10 位 | 11 位 | 12 位 | 13 位 | 14 位 | 15 位 |
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難易度1ステージ(2015年) | 50 | 30 | 20 | 18 | 16 | 14 | 12 | 10 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 |
難易度1ステージ(2011年~2014年) | 45 | 35 | 30 | 26 | 22 | 20 | 18 | 16 | 14 | 12 | 10 | 8 | 6 | 4 | 2 |
難易度2ステージ | 30 | 25 | 22 | 19 | 17 | 15 | 13 | 11 | 9 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 |
難易度3,4,5ステージ | 20 | 17 | 15 | 13 | 11 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 |
中間スプリントポイント | 20 | 17 | 15 | 13 | 11 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 |
通過順位 | 1 位 | 2 位 | 3 位 | 4 位 | 5 位 | 6 位 | 7 位 | 8 位 | 9 位 | 10 位 | 11 位 | 12 位 | 13 位 | 14 位 | 15 位 |
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カテゴリー超級 | 40 | 35 | 30 | 26 | 22 | 18 | 16 | 14 | 12 | 10 | 8 | 6 | 4 | 2 | 1 |
カテゴリー1級 | 30 | 26 | 22 | 18 | 14 | 12 | 10 | 8 | 6 | 4 | 2 | 1 | |||
カテゴリー2級 | 20 | 15 | 12 | 10 | 8 | 6 | 4 | 3 | 2 | 1 | |||||
カテゴリー3級 | 10 | 7 | 5 | 3 | 1 | ||||||||||
カテゴリー4級 | 5 | 3 | 1 |
通過順位 | 1 位 | 2 位 | 3 位 | 4 位 | 5 位 | 6 位 | 7 位 | 8 位 | 9 位 | 10 位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
カテゴリー超級 | 20 | 18 | 16 | 14 | 12 | 10 | 8 | 7 | 6 | 5 |
カテゴリー1級 | 15 | 13 | 11 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | ||
カテゴリー2級 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | ||||
カテゴリー3級 | 4 | 3 | 2 | 1 | ||||||
カテゴリー4級 | 3 | 2 | 1 |
通過順位 | 1 位 | 2 位 | 3 位 | 4 位 | 5 位 | 6 位 |
---|---|---|---|---|---|---|
カテゴリー超級 | 20 | 16 | 12 | 8 | 4 | 2 |
カテゴリー1級 | 10 | 8 | 6 | 4 | 2 | 1 |
カテゴリー2級 | 5 | 3 | 2 | 1 | ||
カテゴリー3級 | 2 | 1 | ||||
カテゴリー4級 | 1 |
通過順位 | 1 位 | 2 位 | 3 位 | 4 位 | 5 位 | 6 位 | 7 位 | 8 位 | 9 位 | 10 位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
カテゴリー超級 | 25 | 20 | 16 | 14 | 12 | 10 | 8 | 6 | 4 | 2 |
カテゴリー1級 | 10 | 8 | 6 | 4 | 2 | 1 | ||||
カテゴリー2級 | 5 | 3 | 2 | 1 | ||||||
カテゴリー3級 | 2 | 1 | ||||||||
カテゴリー4級 | 1 |
通過順位 | 1 位 | 2 位 | 3 位 | 4 位 | 5 位 | 6 位 | 7 位 | 8 位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
カテゴリー超級 | 20 | 15 | 12 | 10 | 8 | 6 | 4 | 2 |
カテゴリー1級 | 10 | 8 | 6 | 4 | 2 | 1 | ||
カテゴリー2級 | 5 | 3 | 2 | 1 | ||||
カテゴリー3級 | 2 | 1 | ||||||
カテゴリー4級 | 1 |
所属チーム名は当時。なお、主要部門賞受賞者については
回 | 開催期間 | 総合優勝者(所属チーム) | ステージ数 | 総距離 | 平均時速 |
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1 | 1903年7月1日~19日 | モリス・ガラン (La Française) | 6 | 2,428km | 25.679km/h |
2 | 1904年7月2日~24日 | アンリ・コルネ | 6 | 2,429km | 26.081km/h |
3 | 1905年7月9日~30日 | ルイ・トゥルスリエ (Peugeot) | 11 | 2,994km | 27.107km/h |
4 | 1906年7月4日~29日 | ルネ・ポティエ (Peugeot) | 13 | 4,545km | 24.463km/h |
5 | 1907年7月8日~8月4日 | ルシアン・プティブルトン1/2 (Peugeot) | 14 | 4,488km | 28.470km/h |
6 | 1908年7月13日~8月9日 | ルシアン・プティブルトン 2/2 (Peugeot) | 14 | 4,488km | 28.740km/h |
7 | 1909年7月5日~8月1日 | フランソワ・ファベール (Alcyon) | 14 | 4,488km | 28.658km/h |
8 | 1910年7月3日~31日 | オクタブ・ラピーズ (Alcyon) | 15 | 4,737km | 28.680km/h |
9 | 1911年7月2日~30日 | ギュスタヴ・ガリグー (Alcyon) | 15 | 5,344km | 27.322km/h |
10 | 1912年6月30日~7月28日 | オディル・ドフレイエ (Alcyon) | 15 | 5,319km | 27.894km/h |
11 | 1913年6月29日~7月27日 | フィリップ・ティス 1/3 (Peugeot) | 15 | 5,388km | 26.715km/h |
12 | 1914年6月28日~7月26日 | フィリップ・ティス 2/3 (Peugeot) | 15 | 5,405km | 27.028km/h |
13 | 1919年6月29日~7月27日 | フィルマン・ランボー 1/2 (La Sportive) | 15 | 5,560km | 24.054km/h |
14 | 1920年6月27日~7月25日 | フィリップ・ティス 3/3 (La Sportive) | 15 | 5,519km | 24.132km/h |
15 | 1921年6月26日~7月24日 | レオン・シウール (La Sportive) | 15 | 5,484km | 24.720km/h |
16 | 1922年6月25日~7月23日 | フィルマン・ランボー 2/2 (Peugeot) | 15 | 5,372km | 24.202km/h |
17 | 1923年6月24日~7月22日 | アンリ・ペリシエ (Automoto) | 15 | 5,386km | 24.428km/h |
18 | 1924年6月22日~7月20日 | オッタビオ・ボテッキア 1/2 (Automoto) | 15 | 5,425km | 24.250km/h |
19 | 1925年6月21日~7月19日 | オッタビオ・ボテッキア 2/2 (Automoto) | 15 | 5,430km | 24.820km/h |
20 | 1926年6月20日~7月18日 | ルシアン・ビュイス (Automoto) | 17 | 5,745km | 24.063km/h |
21 | 1927年6月19日~7月17日 | ニコラ・フランツ 1/2 (Alcyon) | 24 | 5,321km | 27.224km/h |
22 | 1928年6月17日~7月15日 | ニコラ・フランツ 2/2 (Alcyon) | 22 | 5,375km | 27.876km/h |
23 | 1929年6月30日~7月28日 | モリス・デワール (Alcyon) | 22 | 5,276km | 28.320km/h |
24 | 1930年7月2日~27日 | アンドレ・ルデュック 1/2 (France) | 21 | 4,818km | 27.978km/h |
25 | 1931年6月30日~7月26日 | アントナン・マーニュ 1/2 (France) | 24 | 5,095km | 28.758km/h |
26 | 1932年7月6日~31日 | アンドレ・ルデュック 2/2 (France) | 21 | 4,520km | 29.313km/h |
27 | 1933年6月27日~7月23日 | ジョルジュ・スペシェ (France) | 23 | 4,396km | 29.730km/h |
28 | 1934年7月3日~27日 | アントナン・マーニュ 2/2 (France) | 23 | 4,363km | 31.233km/h |
29 | 1935年7月4日~28日 | ロマン・マース (Belgique) | 21 | 4,338km | 30.650km/h |
30 | 1936年7月7日~8月2日 | シルベール・マース 1/2 (Belgique) | 21 | 4,414km | 30.912km/h |
31 | 1937年6月30日~7月25日 | ロジェ・ラペビー (France) | 20 | 4,415km | 31.768km/h |
32 | 1938年7月5日~31日 | ジーノ・バルタリ 1/2 (Italie) | 21 | 4,680km | 31.565km/h |
33 | 1939年7月10日~30日 | シルベール・マース 2/2 (Belgique) | 18 | 4,225km | 31.994km/h |
34 | 1947年6月25日~7月25日 | ジャン・ロビック (Ouest) | 21 | 4,642km | 31.412km/h |
35 | 1948年6月30日~7月25日 | ジーノ・バルタリ 2/2 (Italie) | 21 | 4,922km | 33.404km/h |
36 | 1949年6月30日~7月21日 | ファウスト・コッピ 1/2 (Italie) | 21 | 4,808km | 32.119km/h |
37 | 1950年7月13日~8月7日 | フェルディナント・キュプラー (Suisse) | 22 | 4,775km | 32.778km/h |
38 | 1951年7月4日~29日 | ユーゴ・コブレ (Suisse) | 24 | 4,697km | 32.979km/h |
39 | 1952年6月25日~7月19日 | ファウスト・コッピ 2/2 (Italie) | 23 | 4,827km | 31.871km/h |
40 | 1953年7月3日~26日 | ルイゾン・ボベ 1/3 (France) | 22 | 4,476km | 34.593km/h |
41 | 1954年7月8日~8月1日 | ルイゾン・ボベ 2/3 (France) | 23 | 4,865km | 34.639km/h |
42 | 1955年7月7日~30日 | ルイゾン・ボベ 3/3 (France) | 22 | 4,476km | 34.639km/h |
43 | 1956年7月5日~28日 | ロジェ・ワルコビャック (Nord-Est) | 22 | 4,527km | 36.268km/h |
44 | 1957年6月27日~7月20日 | ジャック・アンクティル 1/5 (France) | 23 | 4,664km | 34.520km/h |
45 | 1958年6月26日~7月19日 | シャルリー・ゴール (HOL-LUX) | 24 | 4,319km | 36.905km/h |
46 | 1959年6月26日~7月19日 | フェデリコ・バーモンテス (Esp) | 22 | 4,358km | 35.474km/h |
47 | 1960年6月26日~7月17日 | ガストネ・ネンチーニ (Italie) | 21 | 4,173km | 37.210km/h |
48 | 1961年6月25日~7月16日 | ジャック・アンクティル 2/5 (France) | 21 | 4,397km | 36.033km/h |
49 | 1962年6月24日~7月15日 | ジャック・アンクティル 3/5 (St-Raphaël) | 22 | 4,274km | 37.317km/h |
50 | 1963年6月23日~7月14日 | ジャック・アンクティル 4/5 (St-Raphaël) | 21 | 4,138km | 36.456km/h |
51 | 1964年6月22日~7月14日 | ジャック・アンクティル 5/5 (St-Raphaël) | 22 | 4,505km | 35.419km/h |
52 | 1965年7月8日~8月1日 | フェリーチェ・ジモンディ (Salvarani) | 22 | 4,188km | 35.882km/h |
53 | 1966年6月21日~7月14日 | ルシアン・エマール (Ford) | 22 | 4,329km | 36.819km/h |
54 | 1967年6月29日~7月13日 | ロジェ・パンジョン (France) | 22 | 4,779km | 35.882 km/h |
55 | 1968年6月27日~7月21日 | ヤン・ヤンセン (Hollande) | 22 | 4,492km | 34.894 km/h |
56 | 1969年6月28日~7月20日 | エディ・メルクス 1/5 (Faema) | 22 | 4,117km | 35.296km/h |
57 | 1970年6月27日~7月19日 | エディ・メルクス 2/5 (Faema) | 22 | 4,492km | 34.894km/h |
58 | 1971年6月26日~7月18日 | エディ・メルクス 3/5 (Molten) | 20 | 3,585km | 37.290km/h |
59 | 1972年7月1日~23日 | エディ・メルクス 4/5 (Molteni) | 20 | 3,846km | 35.514km/h |
60 | 1973年6月30日~7月22日 | ルイス・オカーニャ (bic) | 20 | 4,150km | 33.407km/h |
61 | 1974年6月27日~7月21日 | エディ・メルクス 5/5 (Molteni) | 22 | 4,098km | 35.661km/h |
62 | 1975年6月26日~7月20日 | ベルナール・テヴネ 1/2 (Peugeot) | 22 | 4,000km | 34.906km/h |
63 | 1976年6月24日~7月18日 | ルシアン・ファンインプ (Gitane) | 22 | 4,098km | 34.518km/h |
64 | 1977年6月30日~7月24日 | ベルナール・テヴネ 2/2 (Peugeot) | 22 | 4,096km | 35.393km/h |
65 | 1978年6月29日~7月23日 | ベルナール・イノー 1/5 (Renault-Gitane) | 22 | 3,908km | 36.084km/h |
66 | 1979年6月27日~7月22日 | ベルナール・イノー 2/5 (Renault-Gitane) | 24 | 3,765km | 36.512km/h |
67 | 1980年6月26日~7月21日 | ヨープ・ズートメルク (Raleigh) | 22 | 3,842km | 35.068km/h |
68 | 1981年6月25日~7月19日 | ベルナール・イノー 3/5 (Renault-Gitane) | 24 | 3,758km | 37.844km/h |
69 | 1982年7月2日~25日 | ベルナール・イノー 4/5 (Renault-Gitane) | 21 | 3,507km | 37.458km/h |
70 | 1983年7月1日~24日 | ローラン・フィニョン 1/2 (Renault-Gitane) | 22 | 3,860km | 36.230km/h |
71 | 1984年6月29日~7月22日 | ローラン・フィニョン 2/2 (Renault-Gitane) | 23 | 4,021km | 34.906km/h |
72 | 1985年6月28日~7月21日 | ベルナール・イノー 5/5 (La Vie Claire) | 22 | 4,109km | 36.232km/h |
73 | 1986年7月4日~27日 | グレッグ・レモン 1/3 (La Vie Claire) | 23 | 4,084km | 37.020km/h |
74 | 1987年7月1日~26日 | ステファン・ロシュ (Carrera) | 25 | 4,331km | 36.644km/h |
75 | 1988年7月4日~24日 | ペドロ・デルガド (レイノルズ・チーム) | 22 | 3,286km | 38.909km/h |
76 | 1989年7月1日~23日 | グレッグ・レモン 2/3 (ADR) | 21 | 3,285km | 37.487km/h |
77 | 1990年6月30日~7月22日 | グレッグ・レモン 3/3 (Z) | 21 | 3,286km | 38.621km/h |
78 | 1991年7月6日~28日 | ミゲル・インドゥライン 1/5 (バネスト) | 22 | 3,914km | 38.747km/h |
79 | 1992年7月4日~26日 | ミゲル・インドゥライン 2/5 (バネスト) | 21 | 3,983km | 39.504km/h |
80 | 1993年7月2日~25日 | ミゲル・インドゥライン 3/5 (バネスト) | 20 | 3,714km | 38.709km/h |
81 | 1994年7月2日~24日 | ミゲル・インドゥライン 4/5 (バネスト) | 21 | 3,978km | 38.381km/h |
82 | 1995年7月1日~23日 | ミゲル・インドゥライン 5/5 (バネスト) | 20 | 3,635km | 39.191km/h |
83 | 1996年6月29日~7月21日 | ビャルヌ・リース (ドイツテレコム) | 21 | 3,765km | 39.235km/h |
84 | 1997年7月5日~27日 | ヤン・ウルリッヒ (ドイツテレコム) | 21 | 3,950km | 39.237km/h |
85 | 1998年7月11日~8月2日 | マルコ・パンターニ (メルカトーレ・ウノ) | 21 | 3,875km | 39.983km/h |
86 | 1999年7月3日~25日 | 優勝者無し | 20 | 3,687km | |
87 | 2000年7月1日~23日 | 優勝者無し | 21 | 3,662km | |
88 | 2001年7月7日~29日 | 優勝者無し | 20 | 3,453km | |
89 | 2002年7月6日~28日 | 優勝者無し | 20 | 3,276km | |
90 | 2003年7月5日~27日 | 優勝者無し | 20 | 3,426km | |
91 | 2004年7月3日~25日 | 優勝者無し | 20 | 3,391km | |
92 | 2005年7月2日~24日 | 優勝者無し | 21 | 3,608km | |
93 | 2006年7月1日~23日 | オスカル・ペレイロ (ケス・デパーニュ) | 21 | 3,654km | 40.784km/h |
94 | 2007年7月7日~29日 | アルベルト・コンタドール 1/2 (ディスカバリーチャンネル) | 20 | 3,554km | 39.226km/h |
95 | 2008年7月5日~27日 | カルロス・サストレ (CSC・サクソバンク) | 21 | 3,523km | 40.093km/h |
96 | 2009年7月4日~26日 | アルベルト・コンタドール 2/2 (アスタナ・チーム) | 21 | 3,459 km | 40.31 km/h |
97 | 2010年7月3日~25日 | アンディ・シュレク (チーム・サクソバンク) | 20 | 3,642km | 39.596km/h |
98 | 2011年7月2日~24日 | カデル・エヴァンス (BMC・レーシングチーム) | 21 | 3,471km | 39.788 km/h |
99 | 2012年6月30日~7月22日 | ブラッドリー・ウィギンス (スカイ・プロサイクリング) | 20 | 3,480km | 39.735 km/h |
100 | 2013年6月29日~7月21日 | クリス・フルーム 1/4 (スカイ・プロサイクリング) | 21 | 3,403.5km | 40.545 km/h |
101 | 2014年7月5日~7月27日 | ヴィンチェンツォ・ニバリ (アスタナ・チーム) | 21 | 3,663.5km | 40.7 km/h |
102 | 2015年7月4日~7月26日 | クリス・フルーム 2/4 (チームスカイ) | 21 | 3,360.3km | 39.64 km/h |
103 | 2016年7月2日~7月24日 | クリス・フルーム 3/4 (チームスカイ) | 21 | 3,529km | 39.62 km/h |
104 | 2017年7月1日~7月23日 | クリス・フルーム 4/4 (チームスカイ) | 21 | 3,540km | 41.00 km/h |
105 | 2018年7月7日~7月29日 | ゲラント・トーマス (チームスカイ) | 21 | 3,329km | 40.21 km/h |
106 | 2019年7月6日~7月28日 | エガン・ベルナル (チーム・イネオス) | 21 | 3,366km | 40.58 km/h |
107 | 2020年8月29日~9月20日 | タデイ・ポガチャル 1/2 (UAE チーム・エミレーツ) | 21 | 3,484.2km | 39.89 km/h |
108 | 2021年6月26日~7月18日 | タデイ・ポガチャル 2/2 (UAE チーム・エミレーツ) | 21 | 3,414.4km | 41.17 km/h |
109 | 2022年7月1日~7月24日 | ヨナス・ヴィンゲゴー 1/2 (チーム・ユンボ・ヴィスマ) | 21 | 3,328km | 41.83 km/h |
110 | 2023年7月1日~7月23日 | ヨナス・ヴィンゲゴー 2/2 (チーム・ユンボ・ヴィスマ) | 21 | 3,405.1km | 41.408km/h |
2022年の109回大会まで、国籍別ではフランスが36勝、次いでベルギーが18勝、スペインが12勝、イタリアが10勝、イギリスが6勝、ルクセンブルクが5勝、アメリカ合衆国、デンマークが3勝、スイス、オランダ、スロベニアがそれぞれ2勝、アイルランド、ドイツ、オーストラリア、コロンビアが各1勝となっている。なおランス・アームストロングの優勝剥奪(後述)があるため、大会の回数と勝利数の合計は一致しない。
ツールで総合優勝を5回達成した選手達を俗に「5勝クラブ」と呼んでいる。「5勝クラブ」に名を連ねている4人はいずれも歴史に残る名選手である。2005年にランス・アームストロングは史上初の7回の総合優勝を達成したが、2012年にドーピングによるものとして7連覇の記録は剥奪されている。
順位 | 名前 | 国籍 | 優勝回数 |
---|---|---|---|
1 | エディ・メルクス | ベルギー | 34 |
1 | マーク・カヴェンディッシュ | イギリス | 34 |
3 | ベルナール・イノー | フランス | 28 |
4 | アンドレ・ルデュック | フランス | 25 |
5 | アンドレ・ダリガード | フランス | 22 |
なお、ランス・アームストロングは22勝で5位となるが、ドーピングにより剥奪されている。
ツール・ド・フランスは、その初期から不正が横行していた。2回目の1904年の大会の時点で、優勝者のモリス・ガランを含む完走27選手中12選手が、列車の使用などの不正をして失格となり、アンリ・デグランジュがレースを開催しないと宣言する事態となる。このデグランジュの決断は、後に撤回されたため、ツール・ド・フランスは継続されるようになったが、貧しい階級出身者が多かった当時の自転車競技者にとって、巨額な賞金は何としてでも手に入れたいものであり、その後も不正行為は後を絶たなかった。特定の場所を通過したかどうかのチェックを行うポイント制が導入されてから、列車などの乗り物を使った不正は減少したが、代わりに薬物によるドーピングが用いられるようになる。21世紀になっても、ドーピングの問題は根深かった。2013年大会以降は、現在まで重大なドーピング問題は報告されていない。
この節の加筆が望まれています。 |
主催者であるASOとUCIとの間で、参加チームの選定など、管理・運営に関する溝がUCIプロツアー制定初年度の2005年から生じた。さらにその溝は、年を追うごとに深刻さを増し、ジロ・デ・イタリアの主催者であるRCSスポルト、ブエルタ・ア・エスパーニャの主催者であるウニプブリクをも巻き込こんだ。そしてついに2008年、ASO、RCS、ウニプブリクが、UCIプロツアーからの離脱を決定。この決定に対し、看過できないという強硬姿勢をとったUCIとの確執がさらに続き、2008年の大会開催時に、ASOから参加を拒まれたアスタナ・チームを除く当時の17のUCIプロチームが、翌2009年シーズンのUCIプロツアーライセンスを更新しないという事態にまで発展したが、同年8月、UCIがASOの親会社であるEPAとの話し合いの末、UCIプロツアーを包含した新制度UCIワールドカレンダーを2009年シーズンから開始することで和解。ツールは2年ぶりに、ロードレースの年間シリーズに復帰することになった。
ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアを同一人物が同年に総合優勝することを指して「ダブルツール」と呼び、加えて世界選手権自転車競技大会個人ロードレースを同年に制すると「トリプルクラウン」と呼び「カンピオニッシモ(伊:campionissimo、「チャンピオン」の最上級)」として称えられる[要出典]。
参加者の中で最も総合タイムの遅い選手は「ランタンルージュ (Lanterne rouge)」=「赤ランプ」と呼ばれる。これは以前は貨物列車の最後尾に目印として赤ランタンが掛けられていたことに引っ掛けて(尾灯が赤であるべきことは世界共通。前照灯参照)「一番後ろを走る存在」すなわち「最下位の選手」を意味しており、総合優勝などとは別の意味で非常に注目される存在である。
現在日本での放送はスポーツ専門チャンネル「J SPORTS」で全ステージ生中継されている(J SPORTS cycle road raceも参照)。
1985年から1991年にかけてはNHKが放映権を持ち、主にBS1で中継を行っていたほか、地上波でも数回「世界最大の自転車レース」と題して単発特番を放送していたこともある(現在この間の放送をDVD化したものがNHKエンタープライズから発売されている)。2007年からはBS1で後日ダイジェストながら放送を再開している。2013年から2015年までは「まいにち ツール・ド・フランス」のタイトルでデイリーハイライト番組を、2016年以降はウィークリーハイライトを放送。
1992年にフジテレビが放映権を取得し、同系列で「英雄たちの夏物語」というダイジェスト番組を2~3回にわたり放送していた。またJ SPORTSが生中継を始める前はフジテレビが衛星録画、山岳ステージの衛星中継を独占で行っていた。ダイジェスト番組のナレーションは窪田等が担当。テーマ音楽はTHE SQUAREの「CHASER」、エンディングテーマはビル・コンティによる映画『ライトスタッフ』のテーマ曲「The Right Stuff」。なお、2013年には第100回開催記念としてJ SPORTSが往事のコンセプトをそのまま再現した同タイトルの総集編を放送している。
1998年には当時の「SKY Sports」(J SPORTSの前身)がフジテレビからサブライセンスを受ける形で生中継を開始(その関係から、青嶋達也などフジテレビのアナウンサーが実況を担当することが多かった)。2005年にはフジテレビが放送権を放棄し、代わってJ SPORTSが5年間の独占放送の権利を取得した。2009年に契約を更新し2013年までの延長が発表され、さらに契約延長により2017年現在でも放送されている。2017年は全21ステージについて、スタートからフィニッシュまでの完全生中継が実現した。
なお、J SPORTSの生中継では、非常に長時間(2017年は最大で約8時間中継)に及ぶことから放送中に実況・解説者に補給食(レース中に選手が補給食を受け取るための袋にちなんで「サコッシュ」と呼ばれている)が配られそれを食べながら放送を行うという、他のスポーツ中継にはない特色があった。2007年にはJ SPORTSの携帯サイトにおいて視聴者が中継を見ながら食べているものを撮影してメールで送ってもらう「今日のサコッシュ」というコーナーが展開されるなど、ツール中継における名物となっていた。また2000年から2004年まで開催中に「裏ツール」サイトが公式サイト内に設置され、視聴者からの質問などをフォローしていた。川柳の投稿や放送内に行われるプレゼントクイズへの珍回答などを題材に毒舌の担当者の独断と偏見でプレゼントが贈られていた。Twitterが普及すると、ロードレース中継専用の実況ハッシュタグ「#jspocycle」と質問用ハッシュタグ「#jspocycleq」を設定、後者に関しては随時視聴者からの質問を取り上げ解説者が回答している。
また、テレビでの本放送だけでなく、J SPORTSオンデマンドでも同時ライブ配信を実施、同時にフランス現地の放送も実況を差し替えずに配信するだけでなく、最大4画面のマルチアングル配信も行っている。またYouTubeとニコニコ動画・ニコニコ生放送でも第1日などの無料同時ライブ配信やレースハイライトの配信を行っている。
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