エマニュエル・ジャン=ミシェル・フレデリック・マクロン(フランス語: Emmanuel Jean-Michel Frédéric Macron、1977年12月21日 - )は、フランスの政治家。同国第25代大統領(在任:2017年5月14日 - )、アンドラ共同公。大統領府副事務総長、経済・産業・デジタル大臣を歴任した。
エマニュエル・マクロン Emmanuel Macron | |
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任期 | 2017年5月14日 – 現職 |
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首相 | エドゥアール・フィリップ ジャン・カステックス エリザベット・ボルヌ |
任期 | 2017年5月14日 – 現職 |
共同公 | ジュアン・エンリク・ビベス・イ・シシリア(ウルヘル司教・共同公) |
任期 | 2014年8月26日 – 2016年8月30日 |
大統領 | フランソワ・オランド |
内閣 | 第2次マニュエル・ヴァルス内閣 |
任期 | 2012年5月15日 – 2014年7月15日 |
大統領 | フランソワ・オランド |
出生 | 1977年12月21日(45歳)![]() |
政党 | (社会党→) (無所属→) (共和国前進→) 再生 |
出身校 | パリ第10大学 パリ政治学院 国立行政学院 |
配偶者 | ブリジット・マクロン (2007年10月 – ) |
宗教 | 不可知論 |
署名 | ![]() |
1977年12月21日、フランスのソンム県・アミアンに生まれる。首都パリのナンテール大学(パリ第10大学)で哲学を学び、パリ政治学院で公共問題を修了、2004年に国立行政学院(ENA)を卒業した。彼は財務監査官の上級公務員として働いた後、ロスチャイルド家の金融持株会社ロスチャイルド&カンパニー傘下の銀行であるロスチャイルド銀行の投資顧問業務に就いた。
2012年5月、フランソワ・オランド大統領(当時)により大統領府副事務総長(Secrétaire Général Adjoint)に任命された。2014年8月、ビジネスライクな改革を推進した第2次マニュエル・ヴァルス内閣において経済・産業・デジタル大臣に任命された。2016年8月に翌年の大統領選挙に立候補するため、大臣職を辞任した。2006年から2009年にかけて社会党に属した後、マクロンは中道の政治団体「En Marche!(アン・マルシュ!)」を結成する。
2017年5月7日、決選投票で66.1パーセントの投票を獲得し、国民連合のマリーヌ・ル・ペンに勝利した。マクロンは39歳という歴史上で最も若いフランス大統領となり、首相にエドゥアール・フィリップを任命した。
2017年6月の総選挙でマクロンの党は、「共和国前進!、LREM」へと改名し、その同盟である「民主運動、MoDem」と共に国会で過半数を確保した。
2019年4月、反エスタブリッシュメント・反マクロン政権を標榜し、非常に長い期間に渡って続く黄色いベスト運動への緩和処置の一環として、自身も卒業したエリート養成校フランス国立行政学院の閉校を宣言した。
1977年12月21日、ソンム県アミアンにて神経学者である父ジャン・ミシェル・マクロンと、医師である母ノゲス・フランソワーズ・マクロンとの間に生まれた。父と母は2010年に離婚している。夫婦の最初の子供は死産した。弟に1979年生まれのロラン、妹に82年生まれのエステルがおり、エマニュエルは3人兄弟の長男である。無宗教な家庭で育ったマクロンは12歳の時に自らの要求でローマ・カトリックの洗礼を受けた。現在は不可知論者であるとされる。
マクロン家の先祖は、フランス北部オー=ド=フランスのオーティ村に遡る。マクロンの父方の祖母はイギリス人で、イングランドのブリストルで生まれた。母方の祖父母はピレネー山脈の麓の町バニェール=ド=ビゴールから来ている。マクロンは自分のことを「子猫ちゃん=Manette」と呼ぶ祖母と会うため、バニェール=ド=ビゴールを訪れた。彼は祖母に読書の楽しさと左派的な政治傾向を教わった。祖母は駅長の父と母に慎ましく育てられ、教師となり中学校校長を務め、2013年に亡くなった。
地元のイエズス会系私立校リセ・ラ・プロヴィダンス(Lycée la Providence à Amiens)在学中の1994年にコンクール・ジェネラルを受賞する。アミアン音楽学校ではピアノの学位を取得した。その後、現在の妻であるブリジット・オジエールとの関係からリセ最後の1年をパリ5区の公立校アンリ4世校(リセ・アンリ=キャトル、Lycée Henri-Ⅳ)で学ぶこととなった。理系バカロレアに合格後、そのまま同校グランゼコール準備級(CPGE)に進学。哲学を志してパリ高等師範学校を志望するも筆記試験に2度失敗する。
1998年、パリ政治学院(シアンスポ)に入学した。専攻を国際部門から公務部門に切り替え、2001年に卒業。同時にパリ第10大学(パリ=ナンテール大学)に入学し、ヘーゲルとマキャベリの政治哲学に関する論文で修士号とDEA(学位)を取得した(グランゼコールと大学のダブルスクールはよくあることである)。この頃、1999年から2000年にかけて歴史学教授フランソワ・ドッスの紹介で哲学の名誉教授ポール・リクールの著作執筆の編集助手を務め、リクールの大著『記憶、歴史、忘却』(2000年)の序言にはマクロンへの謝辞が記されている。その後は国立行政学院(ENA、エナ)に進み、パリ政治学院からENAというフランスにおける官僚養成のエリートコースを卒業する。
2004年に国立行政学院(ENA)を卒業したマクロンは、経済・財務省の中心機関であるアンスペクション・ジェネラル・デ・フィナンス(IGF)の財務監査官(財政監査官)に就任する。マクロンは当時のIGFトップのジャン=ピエール・ジュイエから指導を受けた。 また財政監査官のあいだ、エリートの私立CPGEであるIPESUPの「prep'ENA」(ENA入学試験のための特別塾)で夏季レクチャーを行った。
2007年8月、ジャック・アタリの「フランス成長解放委員会」の報道官に任命された。2008年12月に政府契約から自身を自由にするため5万ユーロを支払った。その後ロスチャイルド&Cie銀行の高額給与ポジションの投資銀行家となった。2010年3月にアタリ委員会のメンバーに任命された。
2008年9月、マクロンは監査官を辞めロスチャイルド&Cie銀行に勤めた。ニコラ・サルコジが大統領に選出されたために政府関係の職から離れたといわれる。ロスチャイルド&Cie銀行での彼の最初の仕事はCréditMutuel Nord Europeによる消費者金融会社コフィディスの買収支援だった。
マクロンは『ル・モンド』紙の監督委員会を務める実業家アラン・マンク(英語版)と関係を結んだ。2010年、マクロンは『ル・モンド』紙の資本増強とアトス社によるシ―メンズITソリューション&サービスの買収に関わった後、ロスチャイルド&Cie銀行と提携するよう彼を促した。同年、マクロンはマネージングディレクターに任命され、ネスレが乳幼児飲料を中心としたファイザーの最大の子会社の買収を担当した。この総額90億ユーロにものぼる取引での分担金によりマクロンは億万長者となった。
マクロンは2010年12月から2012年5月の間に200万ユーロを稼いだと述べた。公式文書によれば2009年から2013年の間にマクロンはおよそ300万ユーロを稼いでいたとされる。
2012年5月から大統領府副事務総長としてフランス大統領であるオランドの側近を務めるようになる。
2014年8月、ドイツ主導の緊縮財政政策を批判して更迭されたアルノー・モントブールの後を引き継ぎ、第2次マニュエル・ヴァルス内閣の経済・産業・デジタル大臣に就任した。1962年1月のヴァレリー・ジスカール・デスタン以来最年少の大臣であった。モントブールはユーロ懐疑派で左翼であったのに対し、マクロンは親EU(欧州連合)であり、メディアはマクロンを「アンチ・モントブール」と称した。大臣としてマクロンはビジネスライクな改革を推進する最前線に立った。
マクロンはフランスを代表する自動車メーカーであるルノーの持ち株比率を15パーセントから20パーセントに引き上げ、それからフロランジュ法(the Florange law )を施行し、3分の2の株主がそれを覆すことを表明しない限り、2年以上の長期株主に対して二重議決権を付与した。これはフランスに少数株を与えたが、のちにマクロンはフランス政府はルノー内でその権限を制限すると述べている。
またマクロンは大臣時代、イゼール県にあるエコポラ工場の閉鎖を防ぐことができないと広く批判された。
2015年8月、もはや社会主義党員ではなく、自分は独立していると語った。
2014年12月、オランド政権が目指す主要な経済改革政策を盛り込んだ「経済の成長と活性のための法律案」(通称「マクロン法」)を国会に提出する。100条を超えるこの法案では、年間5回に定められていた商店の日曜日営業を年間12回に緩和することや、長距離バス路線の自由化など多種多様な規制緩和策が提案されたが、多くの反対意見を呼び、与党である社会党からも反発の声が上がった。
2015年2月17日、法案の成立を急いだマニュエル・ヴァルス首相は、年に1度しか行使できない憲法49条3項の特別処置に訴え、国民議会の表決を経ることなく法案を採択させた。同年8月7日に憲法評議会での審議を終えて法案は発効された。
2016年4月、「左派右派のあらゆる良き意思を結集」して「左派でも右派でもない政治」を目指すと宣言し、中立の政治団体「アン・マルシュ! (日本語:前進!、フランス語:En Marche !)」を結成した。2017年6月、党は「共和国前進!」(LREM)へと改称した。
大統領選挙への出馬が噂される中、同年8月30日に経済相を辞任した。辞任の理由については「フランスの景気低迷や社会的な格差拡大に対し、独自の解決策を打ち出せるようにするためだ」と説明。苦境に陥ったフランスに「変革」をもたらすという決意を述べたものの、取り沙汰されていた次期大統領選への出馬を表明するには至らなかった。しかし、経済界からも厚い支持を集める左派閣僚として注目され、経済相辞任は大統領選出馬を見据えた動きとみられた。
2016年11月16日に2017年フランス大統領選挙への立候補を正式に表明する。2017年3月18日、自身が率いる「前進!」からの支持を受け、独立系候補として立候補を届け出た。4月23日の第一回投票で852万8,585票(得票率23.86パーセント)を獲得して首位に立ったが、得票数が有効票の過半数に満たなかったため、5月7日に決選投票が実施されることになった。決選投票ではマリーヌ・ル・ペンを降して2,075万3,797票(得票率66.06パーセント)を獲得し当選した。5月14日に大統領に就任した。なお、39歳での大統領就任は、1848年に40歳で大統領に就任したナポレオン3世の年齢を更新する、史上最年少での就任となった。
6月11日と18日に実施されたフランス国民議会選挙の結果、マクロン与党「共和国前進!」陣営が6割を超える350議席を獲得し、政権基盤を固めた。
2018年11月17日より蛍光色の安全ベストを着た市民が軽油・ガソリン値上げや燃料税の引き上げに対する抗議活動を開始し、フランス全土でマクロン退陣を求める激しいデモ、暴動、略奪に拡大した(黄色いベスト運動)。道路網の封鎖をメインとし、都市部では自動車や市庁舎への放火、店舗略奪、破壊行為が行われた。暴動としては1968年の五月危機以来の規模となった。12月5日、マクロン政権のフィリップ首相は燃料税引き上げ断念を発表した。
2019年4月25日、マクロンは大統領になって初の記者会見を行い、黄色いベスト運動の説得も兼ねて全国規模で行われていた大討論大会の統括と運動への対策案を発表した。このなかで大統領は低所得者や平均的な所得者へ総額50億ユーロ規模の所得税削減と年金の増額を約束した。さらに自身も卒業したフランスのエリート校フランス国立行政学院(ENA)の閉鎖を約束(貧困家庭から学生を募集しないためここ数十年来、批判にさらされてきた)し、フランスの統治システムは変わるべきだと述べた。マクロンは自らの施政を「後悔」しているとも言い、より「ヒューマン」な政治を誓ったが、運動のなかで起きたユダヤ人や同性愛に対する憎悪や暴力を「道徳」と「教育」の衰退だと表現し、全力で戦うとした。
2020年12月17日に新型コロナウイルス感染症の初期症状を自覚したためPCR検査を受けたところ、陽性であることが判明した。陽性判明後も隔離状態で公務を続けていたが、7日後の12月24日までに咳や倦怠感、頭痛などの症状が消失したため、隔離生活を終了した。
2022年1月6日、新型コロナのワクチン接種を拒否する人々について、"emmerder" (くそくらえ)と粗野なスラングを使い厳しく非難したことが国会を紛糾させ、ワクチン未接種者を公の場の大部分から締め出す法案の審議が一時中断された。
2022年4月24日の2022年フランス大統領選挙において得票率58.55%で前回と同様にマリーヌ・ル・ペンを破り再選した。
2023年1月、大統領選の公約で掲げていた年金改革法案を議会に提出。年金受給開始年齢を62歳から64歳に引き上げるもので、約2カ月にわたって議論が白熱したが、同年3月16日の法案の採決予定日においても、過半数を得る見込みが立たなかった。このためエリザベット・ボルヌ首相は、投票数分前に憲法49条3項を適用すると表明して強行採択を行った。パリではコンコルド広場などで数千人もの市民がデモに参加、抗議は夜に及び約120人が逮捕された。
財政改革としてマクロ数値目標(財政赤字の対GDP比率の引き下げ)を設定している。税制問題では増税措置が先行しており、社会保障費を賄う一般社会税(CSG)の増税を行った。減税措置については2022年までに段階的に実施予定である。減税の中心は法人税が予定されており、22年までに法人税33パーセントから25パーセントまで下げることが計画されている。また富裕税(ISF)の減税(富裕税の課税対象を不動産に限定)やキャピタル・ゲイン減税(30パーセントのフラット・タックス導入)などを2019年までに実現することを目指している。家庭向けの減税としては80パーセント世帯を対象に地方住民税廃止を22年までに実現する計画である。公務員12万人の削減も計画している。グローバリズムを支持している。
雇用と賃金の両面で労働市場の調整力を高めることを目指し、労働市場改革を訴えている。2018年1月までに解雇補償額の上限引き下げ、グローバル企業の解雇要件の緩和、解雇不服申し立て期間の2年から1年の短縮などを実現した。
2001年以来フランスでは徴兵制度が廃止されていたが、マクロンは徴兵制復活を大統領選挙の公約に掲げた。マクロンは徴兵制について「軍や憲兵隊の下で行う。1か月間若い国民が体験を分かち、国の結束を強める機会になる。危機に際し、国防の支えになる」と述べ、「若者の国民としての義務感や団結感を強める」と論じている。
マクロンが掲げていた徴兵制度とは、18歳から21歳の男女を対象に約1か月の兵役を課すというものであり、2018年1月19日までに徴兵制を復活させたい考えを示していた。しかしこれに対し、約1か月という短期間だけ兵役を課す意味合いが乏しいとの指摘や、予算がかかりすぎるとの批判が出た。大学や青年団体も10の組織が徴兵制に反対する声明を出し、その中で「押し付けには反対。奉仕活動は国民が選べるようにすべきだ」と訴えた。
そうした批判のため、徴兵制ではなく公共奉仕活動の義務化に変更された。2018年6月27日に閣議決定された「普遍的国民奉仕」計画は、16歳の国民全員に対して4か月から1年あまりの警察や消防や軍での奉仕活動、あるいは慈善活動を行う義務を課すとしている。奉仕活動の最初1か月は義務であり、共同生活を送る。その後第2段階として16歳から25歳の若者が3か月から1年間任意で奉仕活動に参加する。義務奉仕の一部は夏休みに行うことを予定しており、軍の役割・人命救助を学ぶ。任意参加の第2段階については軍・消防・公共機関での職業訓練に近いものを想定している。
大統領就任後の移民・難民政策は移民規制強化の方向が目立つ。2018年4月に移民法を可決させたが、難民申請の期限を早めたり、不法移民を勾留できる期間を倍にしたり、不法入国に対して禁錮1年の処罰を導入するなど実質的には移民規制を内容としているため、人権擁護団体などから批判を受けている。
就任後は2040年までにガソリン車の販売を禁止する目標を打ち出すなど他国と一線を画す環境政策を推進してきた。しかしながら2020年6月の統一地方選では、環境政党に押され与党共和国の共和国前進が惨敗。環境政党の躍進に押された。選挙後の演説で地球温暖化対策を憲法に盛り込む方針を発表した。
2012年のバラク・オバマ政権において、フランスの親米組織フレンチ-アメリカン財団のリーダーを務めたものの、2017年1月に大統領に就任したドナルド・トランプに対してはそのアメリカ第一主義・保護主義的な態度を批判している。2018年4月のアメリカ訪問の際には、アメリカ合衆国議会においてアメリカ政府のパリ協定離脱やイラン核合意離脱などの単独主義を批判し、「多国間主義を作り出したのはアメリカであり、これを維持して再生させる役割を担うのもアメリカだ」と論じた。
2018年10月にアメリカが中距離核戦力全廃条約(INF)から離脱を表明した際にもトランプと電話会談を行い、「この条約は、とりわけヨーロッパの安全保障と我々の戦略的安定にとって重要だ」と伝えて再考を促した。同年11月11日にパリで開かれた第一次世界大戦終結100周年記念式典では「『我々の利益が第一で、ほかはどうでもいい』という考えは、国家にとってもっとも大切な精神的価値を失うこと」とし、地球温暖化などの諸課題に国際社会がともに取り組むべきであると主張した。この演説はトランプ大統領の一国主義への当てこすりと報じられた。
2019年6月6日に戦後の民主主義同盟の礎ともなった第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦75周年式典に際して、環境問題の合意とイランの核合意を放棄し、米欧が参加する北大西洋条約機構(NATO)を去ると脅しさえしたトランプ大統領に「親愛なるアメリカは、他人の自由のために戦ったときほど偉大なことはなかった」と指摘し、自由主義体制の根本である「ノルマンディーの約束」を守るようにと呼びかけた。また両者はオマハ・ビーチのアメリカ軍戦没者の墓地を訪れ、参加した退役軍人らに勲章を贈った。
欧州連合(EU)の統合強化を推進することを基本的立場とする。
アメリカのトランプ大統領がNATOへの脅しに近い発言を繰り返すことを受け、ヨーロッパの安全保障のアメリカ依存からの脱却とEUによる安全保障強化を訴えている。2018年8月27日には「ヨーロッパは自らの安全保障についてもはやアメリカに依存することはできない。ヨーロッパの安全保障は私たち次第だ」と述べた。2018年11月5日にラジオ番組の中で「真の欧州軍」の創設が必要であるとの認識を示した。それについて「我々は中国とロシア、さらにはアメリカに対しても自衛しなければならない」「1980年代にヨーロッパを襲ったミサイル危機後に締結された重要な軍縮条約から、トランプ大統領が離脱すると発表するのを目にする時、主たる犠牲者は誰になるだろうか。それはヨーロッパとその安全保障だ」「真の欧州軍を持つと決意しない限り、我々は欧州市民を守ることにならない」と論じた。
マクロンの「欧州軍」構想について、アメリカのトランプ大統領は「侮辱的な話だ」「ヨーロッパはNATOに公平な分担(金)を支払うことが先決だ」と反論した。逆にロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンは「欧州軍」構想について「ヨーロッパが安全保障の独立を目指すのは当然。世界の多極化の為に良い」と発言し、アメリカとヨーロッパの分断を煽っている。ドイツのアンゲラ・メルケル首相は「欧州軍」構想について2018年11月13日の欧州議会で「我々は真の欧州軍をいつか創設するためのビジョンを話し合うべきだ」「ヨーロッパ各国の間で2度と戦争をしないというメッセージになる」と賛意を示したうえで「欧州軍はNATOに敵対するものではなく、むしろよい、そして無駄のない補完になる」としてトランプ大統領の懸念は当たらないとの見解を示した。
イギリスのEUの加盟時に強硬な態度を取ったド・ゴール仏大統領よろしく、EU統合保持の立場からイギリスの欧州連合離脱(ブレクジット)には強硬な態度で臨んでいる。スペインの『エル・パイス』紙は、ドイツのメルケル首相の「よい警察官」に対し、「悪い警察官」の役割を演じているのだと評した。他のEU指導者たちがおしなべてメッセージを外交的な綿で包み込み調停的であるのに対して、条件を定め、できるだけ早い解決を望んでいる。またメイ首相とのEU間の交渉も「正直なところ、現実的に対応しているとは思えない」と批判している。
2019年2月、アンチエスタブリッシュ(五つ星運動)で知られるイタリアのルイジ・ディマイオ副首相が黄色いベスト運動のリーダーと面談したことを受け、在イタリア大使の召還を発表した。これにより両国関係は第二次大戦以後最悪なものとなった。ディマイオは「新しいヨーロッパは黄色いベストから生まれる」と述べ、フランス政府はこれは「挑発」であり、受け入れることはできないとした。欧米を席巻するポピュリズムと右傾化とは一線を画した姿勢を保っている。
2014年3月のクリミア併合以来、対ロシア経済制裁の継続を支持しており、フランソワ・フィヨン、マリーヌ・ル・ペン、ニコラ・サルコジ、ジャン=リュック・メランションといった親ロシア的なフランスの政治家とは立場が異なる。
2017年2月、マクロン陣営の報道担当者バンジャマン・グリボーは、フランス大統領選挙の運動を妨害する目的で虚偽情報を拡散しているとしてロシアを非難した。また、マクロン陣営のウェブサイトや電子メールサーバーに対する相次ぐサイバーテロの背後にロシア政府の存在があるとして、ロシアに対して大統領選挙に介入しないよう警告した。
2018年7月のFIFAワールドカップ・ロシア大会の準決勝と決勝戦にフランス代表の応援でロシアを訪問し、プーチン大統領との首脳会談も行った。折しもイギリスでロシアの元諜報員が毒殺された事件をめぐってイギリスとロシアの関係が悪化していた時期であるため、フランスとロシアの接近として物議をかもした。
2019年12月9日にエリゼ宮にてドイツのメルケル首相と共に、ウクライナのゼレンスキー大統領とロシアのプーチン大統領の会談を仲介した。ウクライナ東部を巡る紛争に関して、捕虜の相互解放と停戦の履行を確認する共同声明を出すことに貢献する。
2022年ロシアのウクライナ侵攻開始に前後してプーチン大統領と電話を中心に十数回会談しているが、侵攻の阻止や早期撤退を説得することはできなかった。ウクライナには兵器も供与しており、同年6月16日にはウクライナの首都キーウを訪問して「ウクライナは勝利しなければならない」と語った。だが、それ以前は「ロシアとウクライナは兄弟の国民」(2022年4月)などロシア寄りと受け取られる発言を度々しているため、ウクライナでは「心配するふりをして何も行動しない」という意味で「マクロンする(マクローニッティ)」という新語が使われるようになっている。
中華人民共和国(以下は中国)の報道機関はマクロンが大統領に当選した際、2014年12月に当時経済相だったマクロンが、フランス政府が保有するトゥールーズ・ブラニャック空港の株式60パーセントのうち49.99パーセントを中国企業に売却することを支持し、売却に反対する政治家を批判し、インタビューで毛沢東や鄧小平の語録を引用して「フランスと中国は非常に重要な歴史的関係を持っている。現在の中国は経済や外交、軍事の強国で、フランスが中国の存在を認めることで両国の関係には大きな力が生まれる。中国とは正常な関係を維持していきたい」と発言したとして中国を重要な盟友と見ている政治家だと報じた。
他方、就任直後のマクロンは中国への警戒感を表している。2018年2月、中国企業がフランス国内において投機的な農地買収を行っている件について「フランスの農地は我が国の主権が関わる戦略的な投資だと私は考えている。よって購入の目的も把握しないまま、何百ヘクタールもの土地が外資によって買い上げられるのを許す訳にはいかない」と述べ、中国企業の農地買収を封じる規制予防策を講じることを言明した。
2019年3月22日のベルギーのブリュッセルで開かれた欧州連合加盟国首脳会議で中国に対する新たな戦略が協議され、貿易の不均衡是正などに向けた対応を進めることで合意した。これを受けてマクロンは「中国に甘い考えを抱く時代は終わった」と宣言した。
2019年3月26日の中国の習近平国家主席のフランス訪問に際して、ドイツのメルケル首相やジャン=クロード・ユンケル欧州委員長も招待して四者会談を行った。マクロンは我々(ヨーロッパと中国)には、考え方の違いがある」として両者が競合関係にあることを強調する一方、「共に多国間主義を推進したい。中国と協力し、対話する用意がある」とも述べた。25日の共同記者会見では「中国とヨーロッパは相互に利益を尊重し、バランスのとれた関係であるべきだ」と主張して中国の投資攻勢を牽制したが、同時に航空・エネルギー・造船分野など約400億ユーロの経済協力に合意している。
2020年4月、マクロンは『フィナンシャル・タイムズ』のインタビューで、中国政府がパンデミックとなった新型コロナウイルス感染症の流行に上手く対処していると「馬鹿正直」に信じてはいけないと警告し、「独裁的な国では私たちの知らないことが起きる。中国武漢でのコロナウイルスへの中国政府の対応に疑問があることは明らかだ」と中国政府を批判した。
2023年4月、マクロンは訪中して習近平主席と会談。帰国の途中で「台湾の危機はわれわれの危機ではない」との発言を行い、台湾有事を許容する可能性を示唆した。
2018年7月、日本の自衛隊とフランス軍とが物資・役務を融通し合う物品役務相互提供協定(ACSA)を締結し、両国の海洋対話を本格化させた。同年10月にフランスを訪問した日本の安倍晋三首相と首脳会談を開催し、両国の連携をアピールした。また海洋進出を強行する中国および保護主義的なアメリカを牽制した。
2019年4月23日にはG20の大阪サミットを前にした安倍首相が意見調整のためフランスを訪問して会談した。安倍はノートルダム火災へのお見舞いを述べ、両者はスリランカ連続爆破テロ事件への非難や自由貿易の推進などについて意見を一致させた。会談後にマクロンは日本語で「日本と共に我々は多極主義への信頼を再構築するという同じ野心を有する。幾多の障害や緊張や閉塞状況が存在することは分かっているが、日本もフランスもそれで諦めてしまうような習性は持っていない。」とTwitterに投稿した。
同会談でマクロンは「いい時も悪い時もパートナー以上の友好国だ」と述べ、中国の強引な海洋進出の強行を念頭に、防衛・経済両面でフランスと日本との関係を深めることで両首脳は一致した。近く行われるフランス海軍空母「シャルル・ド・ゴール」と海上自衛隊の共同訓練を踏まえ「自由で開かれたインド太平洋」実現のための防衛協力加速を申し合わせた。また北朝鮮に完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)を実現させるまでは経済制裁を維持することが重要との認識でも一致した。
2021年7月、東京オリンピックの開会式に出席するため日本を訪問し、同国の菅義偉首相と会談・会食を行った。両首脳は同オリンピックが「新型コロナウイルス(COVID-19)に打ち勝つ世界の団結の強力な象徴」であるとし、その経験を次回のパリオリンピックへ共有することを確認した。また両者は「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けて連携することや、香港やウイグルの人権状況について深刻な懸念を表明した。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の非核化を支持する立場である。2018年10月に大韓民国の文在寅大統領がフランスを訪問した際に北朝鮮への経済制裁の緩和を求められても「フランスは北朝鮮がCVID(完全かつ不可逆的で検証可能な核廃棄)によるプロセスを始めることを期待する」としつつも「そのときまで国連制裁を継続しなければならない」として断っており、制裁緩和に賛成する中露とは異なる立場を示した。なお、フランスと北朝鮮には国交はない。
マクロンは「最悪なのは、アメリカや中国に追随しなければいけないと考えることだ」と述べ、米中の対立から一定の距離を保つべきだと主張した。大手欧米メディアはこの発言に「中国への抑止力を損ねる」等の批判が出ている。
中東政策では親イスラエル路線を採用し、パレスチナの国家承認に否定的な立場である。イスラエル・ボイコットキャンペーンにも反対している。シリア内戦ではバッシャール・アル=アサド政権の退陣・追放を主張し、反体制派武装勢力への支持あるいはアサド政権打倒のための軍事攻撃の必要性を打ち出した。
レバノン首都で起きた2020年ベイルート爆発では、発生後2日後に当たる2020年8月6日にベイルートの被災現場を訪問した。レバノンのミシェル・アウン大統領と会談して、国際的な支援を呼び掛けた。
公職 | ||
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先代 フランソワ・オランド | ![]() 2017年5月14日 - | 次代 (現職) |
先代 アルノー・モントブール 経済・生産再建・デジタル大臣 | ![]() 2014年8月26日 - 2016年8月30日 | 次代 ミシェル・サパン 経済・財務大臣 |
先代 フランソワ・オランド | ![]() 2017年5月14日 - | 次代 (現職) |
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